<掲示板・議事録>

     
  <ぽちさま [甲信越] 2001/09/06(Thu) 13:43>

こたつ城主さま

>あれれ、林能登守さまは源氏でいらしたのですか(゚.゚)。では藤原氏と、どっかで混合してるんでしょうか。まあ戦国期なら、源平藤橘をチャカチャカと取り替えるぐらいの事、都合によってはあったでしょうが……。
 本家に伝わる家系図によりますと、「尊卑分脈」南家祖左大臣乙麿家の末裔という事になっているので正確には藤原なんです。
でも、最近出てきた林能登守の位牌を持っているお宅は何故か源氏になっちゃっているんですよ。
ここのところ調べていて思ったのですが、甲信越地方の林は清和天皇系小笠原出の林家が多いので間違えられてもしょうがないか?という感じがします。

>それにしても、村上家の家臣でなく、家臣のそのまた家臣ですか(^_^;)。確かにややこしいですね。これもまた、どっかで直臣になった、という事なのでしょうかね。
 昨日村上家家臣の清野氏について調べに地元へ行ったのですが清野氏について研究している方が見つからず、林出羽守が村上の家老という記述も見つからないのでこの内容はど〜もよく分かりません。
戦国時代の研究をしている専門家の先生のお話では、名前に付いている地名(林だったら能登)は武士の格式を表しているそうなんです。それを考えると、村上氏の家臣の中で代々「出羽」という地名が付いているのは出浦氏なのでどう考えてもつじつまが合わない様な気がするんです。



<こたつ城主 [関東] 2001/09/07(Fri) 17:13>

>ぽち様

>甲信越地方の林は清和天皇系小笠原出の林家が多いので間違え
>られてもしょうがないか?という感じがします。

なるほど(゚.゚)! 村上氏も清和源氏になってますが、どうやらその前から「村上氏」はいて、高麗系の豪族と憶測されているとか。

ところで林さんが出羽守か能登守か……というのが、ちょっとわからないです。出羽という地名が出浦氏というのも。私が確認できる出浦氏は「上総守」。武田から織田に移ってからは「対馬守」ですねぇ。



<ぽちさま [甲信越] 2001/09/07(Fri) 18:38>

>こたつ城主様

>なるほど(゚.゚)! 村上氏も清和源氏になってますが、どうやら
>その前から「村上氏」はいて、高麗系の豪族と憶測されているとか。
 「坂城町誌」には村上家の祖は清和源氏の一族で天皇を殺そうとして失敗して島流しにされた書かれていました。
「損卑分脈」には確か「村上源氏」という項目があったと思いましたが、違ったかな?

>ところで林さんが出羽守か能登守か……というのが、ちょっとわか
>らないです。出羽という地名が出浦氏というのも。
 地元の図書館に「更級・埴科人物誌」という本がありまして、そこに掲載されていた村上家の家臣一覧には出浦氏は出羽守、林は能登守になっています。

>私が確認できる出浦氏は「上総守」。武田から織田に移ってからは>「対馬守」ですねぇ。
 出浦氏も武田に仕えていた時期があったのですね、葛尾城が落ち義清公に付いて共に越後へ行かなかった人達は名を変え身分を隠し農民になるか、武田の家臣になったのかもしれませんね。
出浦が織田に仕えていたとは、知りませんでした。

 余談ですが、昨日調べモノをしに長野市松代へ行った時松代藩に仕えていた出浦氏の墓の話しを地元の方から聞きました。
松代の竜泉寺に出浦氏の墓があるそうなのですが、誰も墓を管理する人がいないらしく墓が荒れているとの事です。
どうしちゃったんでしょうねぇ?



<こたつ城主 [関東] 2001/09/10(Mon) 18:28>

>ぽち様

>村上家の祖は清和源氏の一族で天皇を殺そうとして失敗して島流し

信濃に島流されてきたのが信濃村上氏の祖ではあるのですが、実はこの前から「村上(島)館」と呼ばれる場所があったとか。現在の「坂城町上平」だそうです。

延暦18年(799)、高句麗の王族が渡来して、その代表として前部黒麻呂という人物が、朝廷から村上姓を与えられてこの地に住み着いたとか。かなり盛大な勢力の保持者だそうで、これがのちに島流しされてきた村上氏の後ろ盾になったと推測されているそうです。

それで清和源氏から始まる方の村上氏ですが、罪状はよくわからない(^_^;)。白河天皇を呪詛したとか、藤原行実(←誰(^^;)?)を斬ったとかで、1094年ごろ、一族の祖、仲宗が周防に。長男惟清は伊豆、次男顕清は越前、三男の仲清は阿波、四男の盛清(長男惟清の養子)が信濃に配流だそうです。

出浦氏については、村上氏の一族だったそうなので、上杉と武田の両方について、家名存続をはかったのではないでしょうか。関ヶ原で東軍と西軍に分かれた真田氏と同じで、信州武士の特徴ってわけでもないでしょうが、何となく納得できる道理です(^_^;)。

>松代藩に仕えていた出浦氏の墓の話しを地元の方から聞きました。
>松代の竜泉寺に出浦氏の墓があるそうなのですが、

ホントですか(゚.゚)?! 竜泉寺は松代町のど真中で、似たような形の屋根の寺が三つ(願行寺、蓮乗寺、竜泉寺)続けて並んでるうちの一つなんです。何度も行きましたが知らなかった。じゃ今度行ってみます。あそこは寺社だらけで、維持も物凄く大変でしょうね。



<村上信濃守雅清さま [関東] 2001/09/10(Mon) 23:05>

こたつ城主さま&ぽちさん

>出浦氏
最近HPの反響で出浦二郎左衛門清則の子孫の方と知り合いに
なりました。松代の出浦氏とは関係ないみたいです。

HPを通じて知り合いがふえたら・・・
子孫の会でも開こうかな・・・<夢
ちなみに、今度僕のHPでは村上一族に関する情報収集を目的としたMLの運営を企画してます。
又、一族会(よくある真田の子孫の会とかみたいなの)で村上一族の会とかないかナァっておもってます。



<こたつ城主 [関東] 2001/09/11(Tue) 13:23>

>村上信濃守雅清さま

>出浦二郎左衛門清則の子孫の方

あ! 同じ方かな。ウチもメール頂きました!(ご覧になられてたら、お返事がまだで、スイマセン!)義清慰霊塔を立てた出浦氏は、松代藩の出浦氏なのか、それとも坂城には別の出浦氏がいたのか……。

ML始めるんですか(゚.゚)。良いですね! 坂城でも、全国から村上氏の子孫の方が連絡をくれるって言ってましたから(その割に応対が出来てないようだが:爆)、ネットワーク化する方がいいかもしれません。
 
     

     
  <ぽちさま [甲信越] 2001/09/12(Wed) 16:26>

>こたつ城主様

>義清慰霊塔を立てた出浦氏は、松代藩の出浦氏なのか、それとも坂城には別の出浦氏がいたのか……。
 そこのところは、非常にびみょ〜なところですね。
松代で地元の方に聞いた話では「藩士は城下に住宅を構えていた」そうなので坂城に別の出浦が居たかどうかは不明です。名字を替えて松代藩に仕えた家の本家筋の消息も不明だし、出浦氏も不明。松代藩って、ど〜してこう資料不足なんだろ?困ったもんです
因みに、今現在出浦という名字のお宅は坂城町に無いと話しに聞いています。

> 村上信濃守雅清
 出浦氏についての情報、ありがとう。

>最近HPの反響で出浦二郎左衛門清則の子孫の方と知り合いに
なりました。松代の出浦氏とは関係ないみたいです。
 そうですか、残念です。
昨日ひょうんな事から長野市のボランティアの方とたまたま出浦氏の話しをする機会があり、その時に「長野県内の小県郡から佐久地方にかけて出浦という姓がある」とその方から教わりました。
長野県内の出浦さん、どこへ行っちゃったのかな?



<ぽちさま [甲信越] 2001/09/12(Wed) 16:47>

>こたつ城主様
ごめんなさい、もう一つレスがありました。

>村上家の祖は清和源氏の一族で天皇を殺そうとして失敗して
 〜中略〜
>実はこの前から「村上(島)館」と呼ばれる場所があったとか。現>在の「坂城町上平」だそうです。
 あで?上平地区の地形が「島」と呼ばれる地形(後ろが山で川に囲まれている)と似ている為「島館」と呼ばれていたと、最近読んだどこかの本に書いてありました。
どちらにしろ、村上家が葛尾城に城を構える前に居た場所は「島」なんですね〜。

>延暦18年(799)、高句麗の王族が渡来して、その代表として前
>部黒麻呂という人物が、朝廷から村上姓を与えられてこの地に住み
>着いたとか。かなり盛大な勢力の保持者だそうで
 ほぉ〜、よく坂城町村上地区には元々渡来人が住んでいた等と本に書いてありますが、坂城とは随分昔から特色のある場所なんですね。
今はすっかりさびれちゃったけど・・・。

>それで清和源氏から始まる方の村上氏ですが、罪状はよくわからない(^_^;)。白河天皇を呪詛したとか
 私も、その様な記述を本で読みました。

>藤原行実(←誰(^^;)?)
 私も知りません(^^;;;

>出浦氏については、村上氏の一族だったそうなので、上杉と武田の
>両方について、家名存続をはかったのではないでしょうか。関ヶ原
>で東軍と西軍に分かれた真田氏と同じで、信州武士の特徴ってわけ
>でもないでしょうが、何となく納得できる道理です(^_^;)。
 出浦氏は村上の一族だったので、上平に城を構えていたのでしょうね。出浦氏って村上義清が越後へ行く時、一緒に越後へ行ったのですか?

>ホントですか(゚.゚)?!
 ホントです、地元で有名?な郷土史研究家の方から得た情報です。
 >竜泉寺は松代町のど真中で、似たような形の屋根の寺が三つ(願
 >行寺、蓮乗寺、竜泉寺)続けて並んでるうちの一つなんです。何
 >度も行きましたが知らなかった。
 へぇ〜、こたつ城主さんいろいろ勉強してらっしゃるんですね。
松代って何か縁がある様な無い様なで、全然別の件で一度松代の寺へ行った事があるぐらいです。

 今度機会があったら、墓参りに行ってみようと思っています。

 >あそこは寺社だらけで、維持も物凄く大変でしょうね。
 う〜ん、あそこは市で保護されている地域なので、何とかなるんじゃないか?と思います。それに寺は檀家からお布施が貰えますしね
神社は寺と仕組み自体が違うので、大変だと思いますよ。



<石野真琴さま [関東] 2001/09/13(Thu) 01:27>

 こたつ城主様、お久しぶりです。長らくご無沙汰しておりました。

>その時に「長野県内の小県郡から佐久地方にかけて出浦という姓がある」とその方から教わりました。
>長野県内の出浦さん、どこへ行っちゃったのかな?

 長野県内の出浦さんですが、真田家の家臣としてその名が残っています。エーと、対馬守盛清、上総介の二人だったと思います。手前ミソですがHPの真田家家臣総覧をご覧下さい。
 この出浦対馬守は真田の忍者であったとされ、戦争が無くなった後に、どこかに忍び込んで殺されたとか・・
  この子孫がどうなったのか今のところ不明です。松代10万石の家臣としてその名が残っていれば良いのですが。誰か松代10万石の家臣団の名が乗っている資料の存在を知っていないものか。



<こたつ城主 [関東] 2001/09/13(Thu) 16:34>

>ぽち様

>「藩士は城下に住宅を構えていた」
>今現在出浦という名字のお宅は坂城町に無い

慰霊塔を立てた経緯は、明暦三年(1657)、「第三代坂木代官長谷川安左衛門利次」という坂城の代官が命じ、かつて家臣だった家柄の「出浦正左衛門清重」に建てさせたそうです。詳しくは「城主のたわごと」2000年11月をご覧下さい。坂城に居たのは長谷川という代官なので、出浦が松代藩に居る分にはおかしくないかもしれません(^_^;)。

>「長野県内の小県郡から佐久地方にかけて出浦という姓がある」

そうです(^_^;)。北信では一番南側。ほとんど佐久の勢力に入ると思います。佐久関連の本を持ってないので、北信方面だけで想像を逞しくしてるわけです。

>(後ろが山で川に囲まれている)と似ている為「島館」と呼ばれていた

私が読んだのでは、「島流し」に由来するとか(^_^;)。恐らく坂城は、村上氏が来る前から高麗人によって栄えていて、義清の村上氏が隆盛した頃が一番栄えたんじゃないかなぁ。一族だらけですよね、あの辺の城跡は。

>出浦氏って村上義清が越後へ行く時、一緒に越後へ行ったのですか?

という話は聞きませんね。村上氏の血脈を、村上氏が越後に、出浦氏が武田に伝えた……と認識してますが(^_^;)。

>神社は寺と仕組み自体が違うので、大変だと思いますよ。

その通りですね(^_^;)。



<こたつ城主 [関東] 2001/09/13(Thu) 16:39>

>石野真琴さま

お久し振りです(^^)。

真田家の家臣となった出浦氏は、最初は武田氏に仕え、次に織田氏に仕え、その次に真田家……と認識しています。でも、対馬守と上総守は別人なのですね! これは知りませんでした。同一人物が仕えた相手によって官位(呼称?)が変わったのだとばかり……。

「真田家家臣総覧」、拝見しました(^^)。私の知ってるのは、忍者の頭領の方です。「盛清」と言うのですね。この子孫に「正左衛門清重」という人物が居れば、一つ解決なんですけど(^_^;)。

>松代10万石の家臣団の名が乗っている資料

これがあれば一発ですが、恐らくあっても松代でしょうね(^_^;)。ぽち様のお話では、松代の竜泉寺に、お墓があるかもしれないとの事なので、今度行ってみようとは思ってますが……。
 
     



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