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<雅さま
[関東] 2000/11/30(Thu) 16:27>
山浦家については、国清以降、子供が相続した様子がないのでわかりません・・・
ちなみに、武王丸の家系が村上本家となってます。
義清には、通説で、5人の子供と、何人かの娘(養女)がおり、高梨家や、その他有力家臣に嫁いでいるそうです。
嫁ぎ先もいろいろな説がありますが、僕の家の家系図の一部をHPにて公開していますので、ご参照下さい!
<禿増す怪。さま [九州]
2000/11/30(Thu) 23:24>
題名:村上義明
『戦国人名事典』を見ると戸田武蔵守氏繁の子とある。
しかし同書によると
氏繁:戸田勝隆の実名
武蔵守:戸田勝成(重政)の官職
であり、何だかよく分からない。戸田勝隆と勝成は兄弟である。
『武家事紀』によると、戸田内記(武蔵守の子)の子が
村上周防守の養子となり、同じく周防守を称したとある。
<ぷくぷく志摩の守さま
[東海] 2000/12/01(Fri) 00:05>
村上氏の謎もかなり佳境にはいってきましたね。
なんと村上義明は戸田勝隆の子なんですね。
勝隆といえば秀吉の家臣でわが愛する西園寺家を謀殺した人物です。
ショック!
なんか話しの本筋からそれてしまってすいません。
<禿増す怪。さま [九州]
2000/12/01(Fri) 13:36>
題名:村上義明2
『新潟県史』によると、
村上頼明(?〜元和元年)
初め政之助、のち次郎左衛門
丹羽長秀に仕え、天正13年頃、周防守に任ぜられる
天正18年、加賀小松6万6千石
慶長3年、越後村上9万石
養子として堀秀政の子を迎えたが、早くに亡くなったので、
妹婿戸田武蔵守氏繁の子忠勝を後嗣とした
忠勝の室は花井義雄(松平忠輝家臣)の妹
『信濃史料 第廿二巻』596ページ「元和年録」には、
娘の孫である戸田武蔵守の子を養子にしたという文章がある。
先に『武家事紀』を紹介したが、別の個所には
村上周防守頼明が戸田武蔵守の末子を養子にしたとあった。
<こたつ城主 [関東]
2000/12/01(Fri) 13:40>
題名:村上義清・系図
↑系図を作るの下手なんですが、大慌てで作りました(^_^;)。掲示板に入る所に、ちょこっとリンクしてあるのがそうです。義清の三女と四女の間に国清が入ってますが、この通りの順番に生まれた、という意味ではありません。
>雅さま
昨日、雅さまのHPを拝見して、私の解釈を系図にしてみたのですが、間違ってたら指摘して下さい。でも、やはり武王丸の家系が本家なのですね♪ 義清には「5人の子」とも、「5人と他女子」とも受け取れる記述を私も見ました。とにかく女子が4名までは確実のようですね!
<こたつ城主 [関東]
2000/12/01(Fri) 13:43>
>禿増す怪。さま
戸田氏繁=勝隆(?)と戸田勝成(重政)は兄弟なのか(^_^;)。こんなに名前が多岐にわたるんじゃ、わかろうハズがない(涙)。果して村上義明は兄弟どっちの子か。
>『戦国人名事典』を見ると戸田武蔵守氏繁の子とある。
>氏繁:戸田勝隆の実名
では兄の子か。それだと宇和島の一時領主。
>武蔵守:戸田勝成(重政)の官職
>『武家事紀』によると、戸田内記(武蔵守の子)の子が
>村上周防守の養子となり、同じく周防守を称したとある。
弟は、丹羽長秀→秀吉の家来と言うサイトもあるが……。大谷刑部麾下、関ヶ原で戦死かぁ。
>村上頼勝(?〜元和元年)
もしかして武田勝頼から名前が?(絶対に有り得ないとも言いにくい、信州に関しては……)
>丹羽長秀に仕え、
う〜ん、戸田氏と同僚だったのかなぁ……。
>養子として堀秀政の子を迎えたが、早くに亡くなったので、
>妹婿戸田武蔵守氏繁の子忠勝を後嗣とした
あ、婚姻関係ならわかります(^^)。やっぱ同僚結婚だったのかな。
>忠勝の室は花井義雄(松平忠輝家臣)の妹
一時期、海津城代になった花井吉成(松平忠輝家臣)も「花井」ですが、その関係でかなぁ……。
>ぷくぷく志摩の守さま
>村上氏の謎もかなり佳境にはいってきましたね。
何か急に……(^_^;)(14年も棚上げ状態だったのに)。
>勝隆といえば秀吉の家臣でわが愛する西園寺家を謀殺した人物です。
謀殺だったんですか。私も今慌てて検索して知ったんですけど(^^;)、何しろ西園寺家の後、宇和島に入城したのは間違いなく戸田勝隆ではあるようですね。とんでもない飛び火。戦国ってラブリー♪ |
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