(?〜1615) 名を茶々。近江の浅井長政と、織田家の同盟のために嫁いだ信長の妹、お市の間に生まれた。長女と言われ、誕生は恐らく小谷城だろうが、記録に乏しく、生年は諸説あって不詳。 長政の嫡男・万福丸は兄か弟かわからないが、初、江与(小督)の姉である事は確かである。 また、大野治長の母(大蔵卿局)が乳母だったという。 浅井家と織田家が戦闘状態に至り、天正元年(1573)、小谷城は落城。父長政は自害。母お市の方や二人の妹とともに、落城間際、叔父・信長の元へ送り届けられ、信長の弟・信包の元で養育された。 天正10年(1582)、本能寺の変の後、母お市の方が、信長の家臣、柴田勝家と再婚したのに連れられ、二人の妹とともに、北ノ庄城に移る。 天正11年(1583)、北ノ庄は秀吉に攻められ落城。義父勝家と母お市の方は自害。再び二人の妹とともに城から出され、秀吉の庇護を受ける。 が、二人の妹は、茶々より先に秀吉の命を受けて嫁いで行き、茶々だけが秀吉の元に残された。以後、6年については記録的にも空白で、いつから秀吉の側室になったのかも不明。 妹のみならず、前田利家の娘や、従姉妹になる京極高次の姉などが、次々と秀吉の側室にあがっている。 前田氏の娘とは顔見知りだったと言い、これは秀吉の保護を受けた前後、前田氏の府中城に身を寄せていた、という話から来ている。 正確な記録にあらわれて来るのは、秀吉の男子・鶴松を生んだ、天正17年(1589年)からで、この時に茶々は23歳だったとも言われる。 また後に通称に使われる「淀」は、山城国の淀城から来るが、この城は鶴松を生んだため、女ながら与えられたといわれている。 が、鶴松は僅か三歳で死亡(1591年)。 秀吉は50代も半ばに達しており、鶴松以外にこの時点で実子の男子は居らず、またそれまでにも男子は、既に夭折した一人しか出来なかったため、失望して、自身の関白職を甥の秀次(秀吉の姉の子)に定めた。 ところがその後、僅か1年ほどで茶々がまた身ごもった。 こうして、文禄2年(1593年)、生まれたのは後の秀頼であるが、又しても男子だったので、その翌3年(1594)、秀次が関白職を解かれ切腹させられたのは、秀頼の誕生が引き金とも言われている。 慶長3年(1598)、秀吉は62歳で亡くなり、残された茶々は32歳だったとも言われ、秀頼はまだ6歳だった。 翌4年(1599)、秀吉の遺命により、秀頼とともに大坂城の西の丸に入り、秀吉に秀頼の補佐を厚く頼み置かれた徳川家康ら五大老も、これに従い、秀吉の正室・北政所(高台院)は、入れ違いに大坂城を出て、京都に入り落飾した。 茶々は秀頼に、日野富子も我が子の足利義尚(9代将軍)に手本に取らせた『樵談治要』という、昔の教育用の本を学ばせたと言う。 が、翌5年(1600)、秀吉死後の天下は収まらず、茶々と同じ近江出身の石田三成が、家康の悪行を憎んで挙兵。 関ヶ原合戦が勃発した。 実際に大決戦があったのは関ヶ原で、ほぼ指揮をとったのは石田三成だが、大坂城には毛利輝元が西軍の総大将として入り、茶々や秀頼がこの時、別に移った形跡もない。 が、家康は、茶々や秀頼と戦をしたわけではないから、母子には責任は無かったと認め、大坂城に住まう事は許したものの、豊臣家の所領はこれで激減してしまう。 「責任は無かったのに所領は削る」というのは、一見矛盾しているように思えるが、これは家康にとっても、自分の味方になった加藤清正など、豊臣家の譜代武将の存在もあり、主家と面と向かって戦をした事には出来ないから取った言動だろう。 慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に上ったが、わずか11歳の秀頼にも、内大臣に任じる労を取り、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせた。 この千姫は、茶々の妹・江与が、家康の嫡男(三男)・秀忠に嫁いで生んだ長女で、茶々には姪、秀頼には従姉妹にあたる。 が、その直後に家康は、征夷大将軍の位を秀忠に譲って、将軍家の世襲を不動にする傍ら、翌9年(1604)には、豊国大明神の臨時祭を執り行って、秀吉を神として大々的に弔うなど、曲芸なみの離れ技が目立つ。 近畿には淀殿が修復した寺が山ほどあるという。 当時、豊臣家の所領は減っても、大坂城には金9万枚、銀16万枚、2千枚の大判金貨の作れる金塊もあった、などとも言われ、家康はこうして豊臣家から巨額を投じさせ、茶々以下の大坂方は、その手管に乗せられたとも言えるが、溜め込んだ財を放って、相手の警戒心を解く手法もあるので、この一事をもって、淀殿が迷信深い愚女とは決め付けにくい。 が、その一方で家康は、高台院には高台寺を建ててやるなどの援助をし、隠居料も与えている。 慶長19年(1614)、大坂冬の陣は、翌・元和元年(1615)に講和で終結するが、大坂城の外堀は埋められ、すぐに夏の陣が勃発。秀頼(23歳)とともに茶々も城内の山里丸にて自刃。一説に49歳という。 高台院のみならず、秀吉の側室たちは先に大坂城を引き払っており、大坂落城で死亡が確認されてるのは茶々だけのようだ。 その分、秀頼生母としての権限は強かったと見られる。 最期にあたって遺骸を敵に取られぬようにとの配慮から身の回りを燃えやすくしていたか、外堀は埋められたとは言え大坂城は広く、火の手が速かったか、いずれにせよ、茶々・秀頼母子の遺体が発見されなかった事からだろう、実はこの時に死なず、生き延びて西国などに落ちた、という伝説も世に根強い。 |
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