■ 山中幸盛 ■


(1545?〜1578)

生年は不詳。
実名の「幸盛」より、後に「尼子十勇士」として、主に講談などで「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話とともに、「山中鹿之介(鹿之助)」の名が有名になった。

山中氏は尼子氏の庶流と言われるが、幸盛は亀井氏を名乗ったとも言われ、二男だったため養子に行ったのが、実家に戻り、病がちな兄に代わって再び山中姓を継いだとも、妻や養女が亀井氏だったからとも言う。

尼子氏が毛利元就に敗北すると、幸盛は尼子氏再興のため上洛。仏門にあった尼子氏の生き残り・勝久を還俗させて擁立した。

永禄12年(1569)、軍船で島根半島に上陸。毛利軍主力が九州で戦っているスキを衝き、新山城を奪い、富田城を攻めるが、毛利軍の逆襲を受けて吉川元春に捕まる。しかし病気を偽って脱走に成功。
また上洛した幸盛は信長に頼り、秀吉の下で播磨上月城に入る。

しかし彼ら尼子残党は、この上月城の籠城戦の前に、毛利氏への敵対感情を信長に都合よく利用されるだけ利用され見捨てられたと言われ、この時もやはり最後は信長に見捨てられる。

天正6年(1578)、上月城は毛利軍に包囲されて、秀吉も助けようとするが、信長に三木城攻めを命じられたため、幸盛らは孤立した。
ついに開城にいたり、勝久は自害。幸盛も護送の途中、備後阿井の渡しで殺害された。

幸盛殺害については、毛利や吉川陣営で反対意見があったとも、暗殺の指示は無かったとも言われ、主人の勝久が自害しているのに、忠臣の幸盛が投降した理由も不明で、 幸盛の尼子再興への執念や、執拗な脱出劇などもあって、生かしておくのは毛利にとって不利と見なされたのだろう。

子孫は酒造を営み、清酒造りに成功したとも言われ、やがて鴻池財閥の始祖となった。