■ 山名宗全 ■


(1404〜1473)

山名氏は、八幡太郎義家の曾孫にあたる新田義範が、上野国の多胡郡山名郷(新田郡の山名の庄)に住み、山名氏を称したときからはじまる。もともと足利家に仕えた武家で、南北朝時代、時氏が山陰地方に勢力を伸ばし、足利幕府時代は但馬、因幡、伯耆の要地の守護であり、足利幕府四職の一家であった。

明徳2年(1391)には一族全体で11ヶ国の守護となり、所領が全国66ヶ国の6分の1にもなったので、「六分の一殿」と呼ばれるほどになった。
だが、3代将軍・義満によって、明徳の乱で山名氏の勢力がそがれ、宗全が生まれたときには二国の守護でしかなかった。

応永11年(1404)、時熙の子として生まれる。幼名・小次郎、長じて持豊と名乗る。
永亨7年(1435)家督を相続し、但馬・伯耆・因幡・備後の守護となる。

嘉吉元年(1441)、嘉吉の乱が起こると、乱の首謀者・赤松満祐を討ち、その功で播磨・石見を与えられ、一族の教清は美作、教之は備前の守護となり、一族で8ヶ国を領して、往年の勢力を回復した。

家督を長男・教豊に譲り、宝徳2年(1450)、剃髪して宗全と称した。
生来の赤ら顔で、赤入道と呼ばれた戦上手であったが、風流も解したという。

細川勝元に娘を嫁がせていたが、享徳3年(1454)、細川勝元の一族である成之が赤松氏の再興をはかったことから不和が生じた。さらに将軍家の世継ぎ問題、管領畠山氏の家督争い、斯波氏の家督争いが起こり、それらが山名派と細川派を対立させることになった。
特に将軍・義政の後継者問題は、一度は義政の弟・義視に決まるが、義政に実子・義尚が生まれると、生母・日野富子は宗全を頼り、義視は勝元と結び応仁の乱が勃発する。

ときに応仁元年(1467)、宗全は西軍の大将となり、東軍となった細川勝元を相手に、両者は京で合戦の火蓋を切って、11年にわたる大乱を巻き起こした。
宗全は一進一退の合戦の最中、文明5年(1473)3月19日、陣中で没す。享年70歳。

その後の山名氏は、応仁の乱後の衰勢が著しく、宗全より5代下った豊国の代は毛利氏に服し、鳥取城に籠城したが、秀吉の城攻囲戦に城中より脱出して秀吉に屈服。後に家康に仕えて6700石を与えられた。