■ 脇坂安治 ■


(1554〜1626)

天文23年(1554)、近江浅井郡脇坂に生まれ、幼名を甚内といった。織田信長に仕え、明智光秀の丹波黒井城攻めに従い功をたて、のちに秀吉に仕えた。

天正6年(1578)、播州三木城を攻め、同11年(1583)、賤ヶ岳の戦いでは片桐且元、加藤清正、福島正則らと七本槍の一人として柴田勝家を敗走させた。
天正13年(1585)、大和・高取城主となったが、淡路・洲本城に移って、3万石を与えられた。

朝鮮の役では海運を務め、朝鮮軍の大軍攻撃を夜襲でかわし、敵の援兵活動に対し、藤堂高虎など諸将とともに編成されたり、配置変換されたりしながら活躍。
慶長の役でも安治の軍が勇戦して破り、蔚山の城に加藤清正が籠城し、大軍に攻められ苦戦した時にも武功を示したという。

関ヶ原の戦いには、はじめ西軍として参加し、小早川秀秋とともに家康に内通し東軍勝利の機を作った。戦後、5万3千石、伊予・大洲城主となる。
寛永3年(1626)8月6日、京都で没。73歳。