■ 宇喜多秀家 ■


(1573〜1655)

宇喜多氏は、浮田とも浮喜多ともいう。鎌倉時代初期、備前児島の地頭職となり、児島氏を称するが、のち同宇喜多に移り、宇喜多を名乗る。室町時代は守護、赤松氏の守護代、浦上氏の重臣だった。

秀家は直家の次男として天正元年(1573)、岡山城に生まれた。

秀家の父、直家は、毛利氏に属しつつ、岡山城を本拠として勢力拡張。天正3年(1575)、毛利氏の援助で三村氏を討ち、同5年(1577)には浦上氏を追放。備前、美作、播磨の一部を領する戦国大名に成長した。

直家は機を見るに敏で、織田信長の中国征伐のときは信長に従い、秀吉の毛利攻めと組んで毛利氏を離れた。

天正10年(1582)、直家が死亡すると、秀家は、幼少につき後見人となった秀吉に養われた。その後、備中高松城攻めに協力し、備中東半、備前、美作を合わせた57万石の大名となる。秀吉にとくに目をかけられ、秀吉の養女(前田利家の娘)と結婚して、秀吉の親族に準ずる待遇を受ける。

天正13年(1584)の四国征伐、同15年(1586)、九州征伐、同18年(1589)、小田原征伐に従軍。文禄元年(1592)、朝鮮出征、小早川隆景とともに碧蹄館に李如松の大軍を破って武功をたて、参議から権中納言に昇進。慶長2年(1597)の再度朝鮮出兵にも、毛利秀元らと海を渡った。

秀吉の信任あつく、青年武将ながら五大老の一人となり、秀吉の死後は家康らと政務を執ったが、慶長5年(1600)、石田三成の副将格として家康を関ヶ原に討たんと、2万近い大軍を率いて中核部隊を担った。家臣、明石全登らの活躍により、福島正則らを圧倒したが敗れ、島津氏をたよって薩摩にのがれる。

その後、島津義弘の保護を受けていたが、同8年(1603)、薩摩藩主忠恒がその助命を嘆願し、その結果、家康の側近本多正純らの助言により死をまぬがれ、慶長11年(1606)4月に八丈島に流された。

島生活50年、4代将軍・家綱の時代である明暦元年(1655)、11月28日、八丈島の配所で没した。83歳。