■ 上杉謙信 ■


(1530〜1578)

謙信の父、為景は、永正3年(1506)に、越中に遠征し戦死した能景のあとを継いで守護代となったが、翌4年(1507)には、主君、越後守護、上杉房能を討ち、その養子定実を守護職につけた。永正6年(1509)、房能の兄、関東管領上杉顕定が8千の軍で府中館を攻めたので、為景は定実とともに越中に逃れた。

翌7年(1510)、為景は勢いをもりかえし、長森原の戦で顕定を滅ぼして府中を回復。定実を守護に復帰させるが、事実上、為景が国主であった、と見てよく、為景は、詰めの城として構えられた春日山を堅固な城塞として構築しなおした。春日山の名は、春日神社に由来すると言われる。

謙信は、亨禄3年(1530)、1月21日、府中(現在の直江津)の屋敷に、長尾為景の末子(四男)として誕生。幼名、虎千代。誕生のころは、府中の館はあったが春日山を本拠としていたと思われる。

謙信の幼少時は、反為景派が決起し、国内を二分する内乱期にあった。天文5年(1536)、為景は家督を長子晴景に譲る。同年(1536、また、一説に1542年)12月、為景病没。晴景25歳、虎千代7歳。

為景の死亡については、他に栴檀野の戦で、一向一揆の計略で落とし穴に落ち、這い上がった所を、一揆勢と結んだ神保氏に殺された、とも言われる(こちらは、1536、1545、1546などの説がある)。何しろ、為景の葬儀には、虎千代も甲冑をつけて参列したほどの混乱であったという。

虎千代は、春日山城下、曹洞宗林泉寺にて、名僧、天室光育の教えを受けて成長した。これが、のちに禅宗を信仰した所以と言われる。元服して、平三景虎となるが、天文5年(1536)とも、天文12年(1543)とも言う。前者であれば6歳。後者なら13歳だが、詳細は不明。強力な味方を得ぬ、兄、晴景に望まれ、還俗させられた、とされる。

天文11年(1542)、胎田常陸介が突然謀反を起こし、城を襲った。景虎はのがれ、まず、母方の実家、栖吉長尾氏の栃尾城の本庄慶秀を頼るが、さらなる追手から逃れるため、わずかの近従とともに上洛した。このとき諸国を巡回したという伝説があるが、これは作り話である。

やがて栃尾城に帰った景虎を胎田常陸介が三千の兵で攻めた。景虎は、城兵や味方の豪族の援兵とともに戦い、敵を退けた。15歳(16歳とも)の初陣である。

また初陣は、黒田秀忠が、景虎の兄(晴景の弟)を殺し、黒滝城に立てこもった所を、景虎が攻め込み撃破した、とも言われ、景虎自身が黒田和泉秀忠を討ち取った、と書く物もある。この当時の景虎関係の文書には諸説あって、明確な点がわからない。しかしいずれにしても、15〜16歳の初陣にして、さしたる援助も得ず、敵を単独で討ち破る例は当時でもやや異常であり、その武勇はかなり広がったものと推測できる。

天文16年(1547)ごろ、内乱がほぼ平定し、同17年(1548)兄、晴景は、守護、上杉定実のすすめに従い、景虎を養子として守護代職を譲る。 晴景が病弱であったためとも、景虎の武名を疎んじた晴景が対立姿勢を深めたのを、定実に諌められたとも言われている。景虎19歳。就任後、景虎は春日山に本格的な居城を築いた。2年後に上杉定実は死去し、子がなかったため、景虎は名実ともに越後国主となった。

謙信の春日山城は、山城としては、稲葉山城、小谷城、一乗谷城、石水寺山城と並ぶ名城であり、御天上と称された本丸は山頂におかれ、井櫓風の櫓が組まれ見張台となった。南に櫓台という一廓があり、矢倉が築かれ、武器、食糧が貯えられた。東側には、二弾にわたる二の丸、三の丸。平坦な山麓に家臣の屋敷。西側に大井戸。

謙信の家臣団は、一門衆(直太刀之衆)に、長尾景信、桃井右馬助、山本寺定長など。譜代・外様衆(披露太刀之衆)に、中条藤資、本庄繁長、秀綱、石川重次、色部長真、千坂景親、長尾政景、斎藤朝信、柿崎景家など。旗本衆に、直江景綱(養子に兼続)、河田長親、山吉豊守など。国人衆に、北越の揚北衆など。

天文21年(1552)、正月、関東管領上杉憲政は、居城上野平井城を北条氏康に追われ、越後統一を果たした景虎を頼ったため、景虎は出兵して平井城を奪回。城代をおいて引き上げた。このとき関東管領職を譲られ、これ以後、始終この重責のために、景虎は関東出陣を余儀なくされ、北条氏を敵に回す事となる。

翌22年(1553)、武田晴信(信玄)に領国を奪われた、信濃の小笠原長時、村上義清などが景虎に身を寄せたため、景虎は川中島に出兵し、武田勢と戦った。第一次川中島合戦である。これ以来、武田氏とも戦う運命となり、さらに、往年の越中一向一揆との戦いが加わって、まさに東奔西走する事となる。

このとき村上義清が、信玄の戦い方について、「信玄は連戦し、今後は守りに入るように見えるが、実は用心深く、十里動くところは三里か五里しか動きません」と語ると、景虎は、「後の勝ちを大切にするという事は、国を多く取りたいからだろう。自分には国をとる考えがないから、さし当たっての一戦に勝つことだけを心掛けている」と答えたという。

また、正攻法を好み、源義経に心酔していたと言われる。「戦とは機であり、勢」を信条として、調略などを極端に嫌い、孫子流の戦法は排撃した向きが見られる。

また、戸隠山での社で、信玄が自分を呪詛する書があるのを笑い、弓矢とる身の恥である、末代までの宝物にせよ、と神職に言った。

永禄2年(1559)2月、北条氏政は3万の兵を率い、橡木城の佐野昌綱を攻めた。景虎はこれに8千の兵をつれて後方を囲み、自らは具足もつけず黒木綿の僧衣に十文字の槍を持ち、23騎のみ引き連れて氏政の陣前をゆっくり馬をすすめた。氏政の兵は「夜叉羅刹のようだ」と恐れをなして近付けず、謙信は悠々と城に入ったという。

しかし実際には、こうした性格の景虎との正面衝突を、むしろ信玄や氏康の方で避けていた向きもあり、特に氏康は、景虎が出てくると引き上げ、去った所で攻める、という持久戦を展開して、景虎をあきらめさせる戦略であった、とも見られる。

また、越後の国人たちは土着性が強く、家来から反逆する者もよく出た。景虎は元々家臣統制力に弱い上、内部亀裂が耐えなかったため、嫌気がさした景虎が国主の座を投げ出し、隠居したがった事件は有名である。

家臣団の中には、景虎のカリスマ性に心酔する者も多かったが、その反面、外征が多いわりに領土拡張欲に乏しく、不満を持つ者も耐えなかった。また、これに調略の手を伸ばしたのが武田信玄で、本庄繁長や、大熊朝秀らを離反させる事に成功している。

永禄4年(1561)、3月、関東北条氏が上杉の属城をたびたび攻めるので、北条氏の本拠、小田原城を2万の兵で囲む。北条氏は正面衝突を避けて城門を閉ざし、篭城。戦局硬直した所を武田氏が信濃に侵入。景虎は包囲1ヶ月半で兵を引き上げる。

同年、景虎は上杉憲政から関東管領職を譲られ、鎌倉で就任式を執り行い、憲政の一字を受けて、上杉政虎と名乗る。この年の9月、有名な第四次川中島の大激戦である。信玄の「啄木鳥戦法」を看破し、信玄本隊を強引な決戦に引きずりこんだ。結果として破ることはできなかったものの、同年冬、将軍義輝からも名を贈られ、輝虎と改める。

永禄10年(1567)、今川氏真と北条氏康が盟約して、武田信玄を困窮させるため、甲斐への塩送りを禁じた。謙信もこれを求められたが、謙信は、塩は武士のみだけでなく民にも必要である、として塩止めをしなかった。曰く「武士の武辺働きは百姓の耕作と同じ、当たり前のことだから、武辺働きだけで、知行を与え人の頭にしてはならぬ」。

関東の北条氏との抗争はつづき、輝虎の出兵は、ここまでで実に14回に及ぶ。陣中越年は7回。また、その生涯に、関東に17回、信濃に7回。越中方面に十数回出撃したが、新たな領土を獲得するための戦でなかったため、上野の一部、晩年に越中・能登・加賀の一部を版図に加えたにとどまった。

また、財政基盤としては、鳴海金山、佐渡金山(西三川金山)。佐渡の鶴子銀山があり、度重なる対外戦争の戦費を支えたにちがいない。

元亀元年(1570)、入道して謙信と号す。同年に北条氏と休戦協定を結び、送られてきた氏康の末子・氏秀(氏政養子)を、人質にはせず、むしろ自分の幼名「景虎」を与えて目をかけ、養子とした。

天正2年(1574)、七尾城の畠山氏に内紛が起こり、近隣の諸将が侵入したため、謙信は能登平定の軍についた。1万3千で、8月2日に七尾城を攻めたが落せず、撤兵。天正5年(1577)に攻め落とす。

同、9月13日、七尾城戦勝の月の宴に有名な「十三夜」を詠じたと伝えられる。曰く、

霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁月三更
越山併せ得たり能州の景
さもあらばあれ家郷の遠征を念うを

一説に、このときの戦いでは、城内に疫病がはやり、そのために落城したとも言われる。また、この詩は、後世者の作とも言われている。

また家訓に、「無心なれば広く、我意なければ愛嬌を失わず、私心なければ疑わず、奢りなければ敬い、間違いなくば恐れず、邪心なければ人物を育て、貪りなくばへつらわず、怒りなければ言おだやかにして、堪えれば諸事叶う。曇りなければ心静かにして、勇気あれば後悔せず、卑しからずんば望まず、孝心あれば忠節に厚く、誇らずして善をよく知り、迷いなければ誰をか咎めず」(大意要約)。

同冬、加賀の手取川で、柴田勝家ら織田軍数万対戦。劣った戦力であったにもかかわらず、これを軽く一蹴。さらに、毛利・本願寺と同盟し、将軍義昭を追放した信長を討つため、出征。関東、陸奥にまで加勢する予定があり、5万ぐらいの軍勢であったと言われる。が、翌6年(1578)、突然厠で倒れ、病床に臥し、3月11日(13日とも)、春日山城内で没。脳卒中であったと言われる。49歳。

謙信の武威は天下随一と言われ、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛騨、上野半国、陸奥二郡、出羽五郡、常陸三郡を従え、東海にまで威をふるったが、その生涯は、人助けのために戦い、敵が降参しても人質を求めなかった点などは、確かに戦国において稀有と言える。また、こうした謙信の性格ゆえに、信玄や氏康は、謙信を苦手視していたとも言われている。

こんな逸話もある。長尾謙忠に四か条の罪があり、謙信はこれを厩橋城で手討ちにしたが、城外にいた謙忠の妻子には、探し出して銭を与えた。家来がなぜ斬らないのか聞くと、謙信は「子が父と同じ逆心があるとは思えない。のちに自分を狙い、父の怨みをはらす、はらさぬは天運である」と言った。助けられた二人の兄弟は上杉家に仕え、加賀市橋城で討死した。

太田資正が北条長国に言上した言葉に、「謙信の十のうち二つは大悪人で、怒りにまかせて事をなすのは非道。残り八つは大賢人で、猛勇、無欲、清潔、大器量、廉直で隠さず、明敏、下には慈悲、忠諫をよく聞き入れ、乱世に得難い名将」。

謙信の酒好きも、また有名で、上洛しては足利義輝や関白、近衛前嗣と京風の酒宴をひらいている。酒豪であったが、一方で関節炎を患った形跡もあり、死因の脳卒中も、酒が原因と言われる。

謙信は信仰に篤く、天台・真言・日蓮など、各派を受け入れたが、その軍旗は「毘」で、毘沙門天に誓いを立て、城内の敷地に毘沙門堂を立てて時折篭り、戦勝祈願をしたことによる。誓いの内容に女性不犯(一生、妻を娶らない)がある点が、武将としては異例であり、側室はもとより正室も持たなかった。理由として、年少時の仏門生活による所もあっただろうが、婚姻外交などを考慮の外においていた点も見られる。

ゆえに謙信には実子がなく、死後、二人の養子の間に後継問題が起き、家臣団を二手に分けての内乱に発展(御館の乱)。すなわち、謙信の姉が上田長尾氏の当主政景に嫁いで生んだ景勝と、前述の北条氏の景虎である。景虎は春日山を追われ、謙信の所領はすべて景勝のものとなった。

景勝は、やがて太閤秀吉に越後から会津に転封させられ、120万石を領有するが、五大老に就任し、家康と対抗。関ヶ原合戦ののち米沢30万石へ減封。