■ 上杉景勝 ■


(1555〜1623)

弘治元年(1555)、越後上田で生まれた。長尾政景の次男。上杉謙信の養子となり、謙信の死後、同じ養子の景虎と家督を争い(御館の乱)、これを破り、上杉家を継ぎ、越後春日山城に住む。越後、佐渡、越中、能登を支配し、武田氏と結んで信長に敵対したが、天正11年(1583)、豊臣秀吉と和し、その麾下に入った。

天正18年(1590)、小田原征伐では武蔵松枝、鉢形、八王子などの城を攻め、翌年(1591)、陸奥九戸一揆にも出兵。文禄の朝鮮の役にも参戦した。慶長2年(1597)、五大老に列し、翌3年(1598)、会津120万石を受封、会津若松城に入った。

同5年(1600)、石田三成との謀議の末、徳川家康打倒の兵を上げたが、関ヶ原の戦後30万石に減封され、米沢に移封された。慶長19年(1614)、大阪冬の陣、元和元年(1615)夏の陣には、徳川方として出兵した。

元和9年(1623)、3月2日、米沢で没した。69歳。

上杉景勝はエピソードの多い人だが、その一つに人に一代の間笑顔をみせたことがなかったという。しかし養父謙信に劣らない武将で、その戦場での用兵はきわめて巧みであった。米沢藩の藩祖としてのちの藩風の基礎を作った。