(1544〜1599) 長宗我部を「長曾我部」と書く文献もある。 長宗我部氏は、秦の始皇帝に発した古代における帰化人の秦氏、あるいは蘇我氏の子孫とも伝えられるが、土佐に居住するようになった経緯、理由、時期などは諸説あり、明らかではない。 一説には、異国から伊勢の桑名に来て土佐に移り、先進的な文化を伝えて村人に敬われ、長となったというし、別の説では、鎌倉時代はじめ、信濃から土佐に来た豪族ともいう。 なにしろ長宗我部氏の始祖は平安末期の秦能俊と系譜には見られ、長岡郡の宗我部郷に入部して宗我部氏と称したのが始まりで、しだいに勢力を得て、香美郡の宗我部氏を香宗我部氏、長岡郡の宗我部氏を長宗我部氏と分ける。 室町時代は一貫して四国探題で幕府管領でもある細川氏と結び、その権力を背景に勢力を拡大した結果、土佐七族の一つにのし上がり、元親の祖父、元秀(兼序)になると、土佐の豪族たちの筆頭となった。 管領細川政元が家臣に殺されたのを契機に細川氏の勢力が衰えると、長宗我部氏の風下にいた国人の本山、山田、吉良、大平などが手を組んで反発、巻き返しをはかり、永正5年(1508)、長宗我部氏の岡豊城を攻略、落城させたため、元秀は自害。この時、元秀の子、千王丸は6歳だったが、家臣の近藤という人物に守られて中村の一条氏を頼った。 前の関白、一条教房は、応仁の乱を避けて土佐の所領に疎開しており、中村に居館を造って小京都のごとく住みなしていたため、土佐の文人や豪族はすべて敬って伺候し、一条氏はそのまま土佐の国司となったという。 千王丸が13歳の時、一条氏は教房からその子、房家に代替わりしており、房家は長宗我部の所領を分配占領していた諸豪族に話をつけ、本領三千貫をとりかえし、千王丸に与えてやった。家来たちは岡豊城を修築し、千王丸は15歳になると元服、国親と名乗った。 このような国親を父に、元親は、天文8年(1539)、土佐の岡豊城に生まれた。幼名は弥三郎。ちなみに岡豊城は、長宗我部氏旧来の城である。 元親は背も高く体格も優れていたが、色白で無口、人見知りも多かったため、家臣から姫若子とあだ名され、やや軽んじられていたようでもある。 父国親は、長宗我部家の復興のため奔走。近隣の豪族である天竺氏、山田氏を滅ぼし、元親の弟、親泰に香宗我部氏を相続させ、長岡郡を本拠に、有力者の朝倉の豪族、本山氏と並ぶ勢力を形成するが、実質的には長岡城、長浜城、浦戸城などを得たのみであり、又しても一条房家が間に入って、国親の娘を本山梅慶の嫡子茂辰に婚姻させることで一時講和している。 しかし永禄3年(1560)、本山梅慶は長宗我部の領土を再び奪うため、多勢をもって長浜城の元親を攻めた。元親はただちに迎え撃ったが、倍以上の勢力を相手に軍は崩れた。 このとき元親は自ら槍をふるい、豪の騎馬を二騎討ち取ったため、全軍が意気を吹き返して敵に向かい、ついに潮江堤に敵軍を破った(土佐長浜表の戦)。この初陣により、家中はみな元親初陣の武勇を認め心服したが、父国親は同年6月15日、病没。 このあと家中は元親とともに本山梅慶と戦い、本山氏を朝倉城(高知市)に追い込んだ。 永禄6年(1563)には、安芸の豪族、安芸国虎が五千の兵で元親の本拠岡豊城を攻撃したが、危機にあった城を、元親と盟約していた豪族、吉田重俊の来援もあって、逆に安芸軍を撃退。 本山氏の朝倉城を巡っても、元親は戦いを続けていたが、本山氏はついに力尽きて本山城に退却。ここも支えきれなくなると、伊予との国境、瓜生野の地に籠ったが、永禄11年(1568)には降伏。これを最後に、元親が本山氏から抵抗を受ける事は無くなった。 翌12年(1569)、さらに強力となった元親は、一時は和睦していた安芸氏も滅ぼし、当時国司だった一条兼定が周囲から不評判なのをみると、これを伊予に追い、安芸地方の反抗豪族をも討ち破って、天正3年(1575)、ついに土佐一国を平定。 父国親の死から15年目の事で、以後は15条の法令を定めるなど、民政にも勤めている。 1、神社仏閣の破損には修理をし、祭りは古法にのっとること。 2、三史(史書、『史記』『漢書』『後漢書』)、五経(儒学経書、『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』)、七書(兵書、『孫子』『呉子』『司馬法』『三略』『六韜』『尉繚子』『李衛公問対』)をよく先生について学ぶこと。 3、武士は弓馬剣銃を幼いときから学び、多芸を望まず、各々の力に応じて一芸に熟達すること。 4、舞、笛、鼓、蹴鞠、茶道など遊芸でも、大体はたしなんでおくこと。 5、衣食住を大切にすること。 6、百姓をあわれんで撫育を加え、清廉な心をもつこと、などの15条。 民政と法令に関しては、『名将言行録』に、元親の言葉として、「上に礼があり、下に義があるときは国は興るが、上に礼なく下に義なければ亡ぶ。下に義があっても上が礼を知らなければ、国は変わりやすく、良将はよく正邪をみきわめ、賞罰を明らかにした」と残っている。 また、長宗我部といえば一領具足は有名であるが、これは、平時は帰農して百姓、戦時には武装してかけつける、という郷士の事である。 土佐は太平洋に海岸を広げる一方、伊予や阿波と国境を接する山脈は高く険しいため、同じ四国でも、他の三国とは異なる要素が多いと言われる。元親が民政を行うにあたって施した工夫は、他の戦国大名と比べても特異な部分が多いかもしれない。 ちょうど同年、中央では織田信長が三河長篠合戦において、武田勝頼に大勝利を得ているが、土佐のみならず、四国平定に乗り出した元親は、隣国の伊予、阿波に兵を出す傍ら、織田信長とも結んでおり、信長の麾下にいた明智光秀の家臣、斎藤利三の妹を正室に迎えている。 しかし信長には、四国全土を元親に任せるつもりはなく、四国を征伐しようとして、三好康長を阿波の国に派遣。三男、織田信孝を大将に、副将には丹羽長秀を定め、泉州、摂津の各湊に兵と軍船を集めた。 信長の計画を知った元親は、土佐から兵を出すのをひかえたが、天正10年(1582)、信長が本能寺の変に倒れ、結局、四国征伐が中断された上、信長の死により、当分、中央情勢が四国に及ぶ余地のないことを見通すや、阿波、讃岐、伊予に出兵。まずは三好一族の十河存保を破って阿波を制圧。 このとき、大西城主、大西覚用は元親に、甥の上野介を人質に出していたが、これをすてて三好氏に通じた。しかし元親は上野介を罰さないと誓紙を書いたので、上野介はその恩に報いるため、大西征伐にあたって先導を約束する誓紙をかえし、のちに、元親の秀れた謀臣となった。 こののち、元親は讃岐に逃げた存保を追捕。存保は秀吉に援軍を要請するが、元親は秀吉が派遣した仙石秀久をも破り、存保は元親に降伏。これにより元親は讃岐も手中にした。 讃岐の鷺山城に新名内膳正を兵糧攻めした時、土地の麦作を刈らせたが(麦薙、苗代返しという兵糧攻めの戦法)、畑を一畔へだてて刈り、半分は土地の百姓のため残したので、百姓たちは、早く土佐の支配下になることを望んだという。 元親は、さらに伊予の河野氏を討ち、天正13年(1585)の春ころまでに、ほぼ四国全土を平定しきった。 一方秀吉は、ほぼ東海、北陸、近畿、中国を平定。四国にいた元親は、秀吉の実力を現実的に把握できなかったため、老臣、谷忠兵衛を使者として挨拶に向かわせて様子を探らせた。 すると、元親が柴田勝家を支持したこと、小牧長久手の戦の折、織田信雄や徳川家康に味方し、根来、雑賀の党と大坂を攻撃しようとしたことを秀吉が怒り、四国征伐を計画中である事がわかった。 元親は四国のうち伊予一国を秀吉に差し出し、自分は残り三国を領有したいと言ったが、秀吉には、これはむしろ元親の現状認識の甘さ、傲慢と見なされ、秀吉の軍は羽柴秀長を総大将に、総兵力12万余を三手に分け、四国征伐のため四国に入った。 圧倒的な大軍を前に、元親は同年8月6日、2ヶ月で降伏。それでも秀吉の寛大な処置により、土佐一国のみ安堵された。 この秀吉の短期間による圧倒的勝利が、中央から遠い地方の武将、すなわち九州の島津氏、奥羽の伊達氏、中国の毛利氏らへの対応に先駆けて、四国征伐で成された点が、長宗我部氏の不運の始まりであったかもしれない。 このあと、地方の豪族や大名が、秀吉、家康に屈しながらも大名として存続できた要因、手段の一つとして、地方にあること、中央からの距離を利用した事が上げられるが、これに四国征伐がどの程度影響していたのかは、非常に興味深い。 元親は同年10月、秀吉に本国を安堵されたお礼を述べるために京に上り、翌14年(1586)、秀吉が九州の大友宗麟から求援を頼まれ、島津氏を討つべく軍を起こすと、元親はこれを援けるため、讃岐の十河存保と淡路の仙石秀久らと、豊後から九州に入った。 しかし総大将の仙石秀久に作戦の誤りがあり、戸次川の戦で島津家久軍の猛攻を受けると四国軍は大敗。十河存保と、元親の嫡子信親は激戦の中で戦死。信親は当時22歳で、武勇に秀で、家中の人望も高かった。 これを聞いた元親は激しく悲しみ、自分もその場で討死しようとしたが、家来たちが止めて馬に乗せ、退却させた。秀吉も報を聞くや、仙石秀久をはげしく怒りその領地をとり上げた上で、自ら出陣して、翌15年(1587)、島津義久は降伏、九州征伐は閉じた。 生き残った者たちと舟で伊予の日振島に引き上げた元親も、ようやく岡豊の居城に帰ると、大高坂城(現在の高知城)を築いて居城とし、岡豊城は廃した。この計画は、天正12年(1584)のころからあったともいうが、廃止の理由はわからない。古い城なので統治に不利な面を感じたのかもしれない。 大高坂山城には3年ほど居城し、小田原征伐から帰った元親は、こんどは浦戸に新城を築き、天正19年(1591)末ごろ移った。当時、川の流れは現在とは違い、大高坂は洪水の害が多く、治水工事は難航したという。浦戸は海寄りだが、水軍の基地や商業的な水運の意味ではよく機能したのかもしれない。 浦戸城は、海岸の小丘に本丸が築かれ、天守も構築されたという。城下町も浦戸に移され、文禄元年(1592)、元親はここで正月を迎えている。 同年春、太閤秀吉は朝鮮出兵の令を発し、元親は三千兵を率いて浦戸を発った。犠牲も多大であったが、土佐兵は強く、戦果もあげ、文禄2年(1593)6月、和睦が成立すると元親も帰国。慶長元年(1596)4月には、元親は自分の伏見の屋敷に大がかりな宴を催し、秀吉を招いている。 同年8月26日、元親は秀吉に派遣されて、サン・フェリーペ号事件に関わっている。 サン・フェリーペ号は、フィリピンからメキシコに行く途中のイスパニヤ船で、増田長盛と元親が入船し、世界地図におけるイスパニヤ領が広大である理由をたずねると、船長は、イスパニヤはキリスト教宣教師を派遣して布教し、各地の国民を懐柔したのち、軍隊を出して土地を奪い、領土を広げたと話した。増田長盛と元親は、イスパニヤ船の積荷と財宝を没収し、秀吉に報告している。これがやがて、日本のキリスト教を禁止と、鎖国の遠因となっている。 慶長2年(1597)6月、元親は朝鮮に再征。翌3年(1598)の3月に帰国。同年の8月16日、秀吉死去のときは伏見邸、年末には土佐に帰国。 朝鮮の役では泗川に築城のおり、垣見家純というものが、塀の狭間(弓矢、鉄砲を撃つ穴)は下方では敵に城内をうかがわれるから、上の方につくれと主張すると、元親は、敵に押し寄せられ、内を見られるほど城兵が弱くては、もともと城など守れないし、狭間を高くつくると、撃った矢丸は敵の頭上をこえてしまうから、下の方につくれと主張し、家純を黙らせたという。 慶長4年(1599)元親は、三男の津野親忠を岩村に幽閉。元親は嫡男信親亡きあとの家督を四男の盛親に定めていたが、この相続には、そもそも重臣から反対があり、元親はこれらに切腹を命じている。これを親忠が不満に思い、謀反の動きありと元親に讒言するものが裏にあったという。 慶長4年(1599)5月19日、元親は伏見の邸で生涯を閉じた。61歳。従四位下、土佐守。 元親のあとを継いで一年の盛親は、関ヶ原で西軍につき、戦わずに敗北。ついに土佐一国を失い、浪人の憂き目にあう。14年後の大坂の陣では、晴れて大坂城に入城し、兵五千を率いたが敗戦。大坂城の落城後、京に潜伏していたところを捕まり、六条河原で処刑された。 長宗我部氏の後、土佐には山内一豊が入り、浦戸城を大高坂城に移し返して治水工事を施した。浦戸城址は海岸の松林の中六体の地蔵があるが、これは長宗我部氏が改易され、山内氏が土佐入りしたとき、長宗我部に属した一領具足6人のものが反抗し、戦って死んだ慰霊だという。 元親にまつわる浦戸や岡豊の城は残らなかったが、大高坂城は明治維新まで山内氏の居城高知城として存続した。山内氏の治政にあって、長宗我部氏の恩顧を受けた者たちも、やがては山内氏に従ったと見られる。 |
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