■ 筒井順慶 ■


(1549〜1584)

天文18年(1549)、順昭の子として、大和国、筒井城に誕生。幼名、藤勝。

長ずるに興福寺の宗徒たちの頭領になり、永禄3年(1560)3月、剃髪の上、陽舜房、順慶と号した。

永禄12年(1569)、三好氏の松永久秀が東大寺の大仏殿を焼き払い、順慶はこれに攻められて大敗。信長が仲介に入ってからは久秀と和解。

しかし、天正5年(1577)、久秀が信長に謀反した時、再び久秀と対立。信長の子、信忠を将に立てた上で久秀の軍を破った。

本能寺の変で信長が死んだ時、光秀と交流のあった順慶は、山崎合戦において光秀に出兵を頼まれながらも、家臣の松倉右近の謀略を取って出兵しなかったため、この態度を、のちに有名な「日和見」と言われる事となる。

天正12年(1584)8月11日、筒井において没。36歳。

筒井家は、順慶には実子が無かったため、叔父の慈明寺順国の子、定次が養子となって20万石を継いだが、家中に揉め事が多い事を咎められ、慶長13年(1608)6月、岩城平に流刑。その後さらに、豊臣氏に通じた事を咎められて自害を迫られ、筒井家は消滅した。