■ 津軽為信 ■


(1569〜1642)

津軽氏は津軽為信を祖としている。

元は藤原氏の支流とも言われているが、13代藤原氏の後裔説、近衛尚通の曾孫説などある他、為信が養子に入った大浦氏は南部の出であるが、為信自身も元は南部氏の何らかの出とも言われ、南部氏が清和源氏であることから、藤原氏出身説も定かとは言いがたい。

津軽為信は天文19年(1550)、津軽赤石城に誕生。幼名は弥四郎。

永禄10年(1567)、大浦城主、大浦為則の養子となる。

南部氏に属していたが、南部氏が衰えると、和徳城を攻め落として反旗を翻し、天正6年(1578)に波岡城を、同13年(1585)に田舎館城を攻略。主家であった南部勢を津軽郡より追い落として、この地域を領有してより、津軽氏を名乗った。

天正19年(1591)、九戸政実の乱において、秀吉の命を受ける形で陸奥福岡城を攻め、文禄3年(1594)、堀越に本拠を移した。

関ヶ原では家康に荷担し、美濃大垣城を攻めている。 この功により翌、慶長6年(1601)、堀越城のまま6万石を得、この後は徳川氏の後援を受けたようである。

その後病を得て、弘前に高岡城を建設予定であったが果せぬまま、慶長12年(1607)、京において58歳の命を閉じた。

建設を予定されていた城は、為信の死後4年たった慶長16年(1611)5月、家督を継いだ三男信枚により、弘前城として完成。