■ 豊臣秀吉 ■


2002/08/28 一部改訂

(1536〜1598)

秀吉の生い立ちは一切不明で、幼時から青年まで明確な史料はなく、逸話創作に包まれている。

竹中重門(半兵衛重治の子)の『豊鑑』には、「尾張国愛知郡中村郷のあやしい民の子で、父母の名も知られてない」とあり、『甫庵太閤記』第一巻、『秀吉公素姓』には、天文5年(1536)尾張中村に、織田信長に仕えた足軽、木下弥右衛門の子として誕生、母(のちの大政所)は美濃の鍛冶関兼貞の娘(弥右衛門の死後、織田家の同朋衆、筑阿弥に再縁)」とある。

近年では、中世の技術集団(鍛治氏、鋳物師、木地師など、山における技術者)の出身という説や、豪農の息子という説まである。

ちなみに、秀吉の弟秀長と、妹、朝日姫(のちに徳川家康夫人)は、筑阿弥の子と言われる。

幼名として知られる日吉丸は後世の創作と言われ、どじょう売りの与助と名乗った伝えもある。

8歳ごろ光明寺に出されたが、学問が身につかず、乱暴でいたずら者だったので寺から出され、家が貧しいために戻れず、三河、尾張などを転々としたという。この折、針売りをしつつ矢作橋の上で蜂須賀小六に会った逸話も作り話で、矢作橋は無かった。

秀吉の学問のほども謎で、秀吉の手紙には、「大しゅ(奥州)」、「大たわら(小田原)」、「小とに(殊に)」など平仮名や当て字が多いが、漢字を知らなかったからとは断定しにくい。

15歳のころ、今川家の家臣、松下之綱に仕えた逸話には、武家奉公が性にあい、主人にも気に入られながら、具足の買い付けに渡された金5両を持ち逃げして、尾張に入ったという。

史実として明確になってくるのは、永禄元年(1558)、織田信長に仕えた頃からで、秀吉23歳(一説に18歳)。馬番や草履取りなどの雑用をこなす小者で、寒い朝、信長の草履を自らの懐で温めた有名な逸話がある。

木下籐吉郎と名乗り、桶狭間合戦のあと、足軽大将にまで出世。信長の近侍の一人で、のちの前田利家とは、この頃より朋友の間柄であったという。

永禄9年(1566)、信長が美濃の斎藤氏と戦った折、勝利をおさめがたいため、墨俣川の対岸に城を築いて拠点とする案が出た。敵の攻撃を受ける中の危険な作業でありながら手柄に結び付きにくいため、志願者がおらず、このとき秀吉が名乗り出て築城を担い、一躍有名となった。

藤吉郎は築城地にあらかじめ土木工事をほどこし、伊勢築城として材木を集め、墨俣上流で建物を組ませ、放浪中に見知った野武士らに番をさせて、夜に用材を流し墨俣にあげ、素早く築城開始した。敵は一夜で建物が現れたと錯覚し、攻め寄せれば柵と野武士らに阻まれ、数日後に築城は果されてたという。

しかしこれら『太閤記』の墨俣一夜城構築には疑問点が多く、後世の脚色も多いと言われる。

ただ、この時期活躍した野武士らに、前述の蜂須賀小六など、美濃の川並衆との関係も唱えられ、学問を知らず、未だ軍師の影すらない時代でも、秀吉の卓抜な土木技術、巧妙な情報収拾には、先にあげた山間における技術集団との関わりも考えうる。

いずれにせよ、秀吉の名が知られるきっかけは美濃攻略であり、合戦より、調略や外交など、敵方の懐柔工作によって認められた事は確かである。秀吉が国境の坪内氏をはじめ、鵜沼、犬山、猿啄、兼山など、中美濃の諸城を攻略したため、龍興の稲葉山城(のちの岐阜城)は孤立し、陥落へと追いやられた。

次の近江平定戦では司令官の一人に抜擢されており、信長の一部将となっている。永禄11年(1568)蓑作城攻めでは、旗頭として部下も多数従え、翌12年(1569)、信長上洛の際は京都警備を任じられている。

天正元年(1573)の浅井、朝倉攻めでは先鋒をつとめ、軍功あって近江、小谷城主12万石。軍師として登用した竹中半兵衛重治も腕をふるったと言われる。

翌2年(1574)には新たに着工した長浜城に、小谷城から居城を移す。この長浜時代、秀吉は側室南殿との間に男子をなしたが、幼くして他界している。翌3年(1575)、長篠合戦で織田家が勝利すると、丹羽長秀、柴田勝家よりそれぞれ一字をもらい、羽柴秀吉と名を改め、筑前守となる。20万石。

天正5年(1577)10月、信長によって、中国の毛利征伐の大将に任じられて播磨国支配に赴き、毛利領に食い込む前線基地として、天正8年(1580)、小寺官兵衛(のちの黒田如水)の進言を受けて姫路城を築く。

天正9年(1581)、姫路城がなると、鳥取城攻撃開始。城をとり囲み、柵、塀、堀、土塁をめぐらせ、5町ごとに見張所を設けて将兵を置き、夜はかがり火を焚いて巡回を施したため、城内からは蟻一匹逃れる隙も無かった。方位の外側には高い塀と柵や堀をめぐらせ、海岸一帯には軍船を置き、毛利の援軍が城内に物資搬入するのを阻止した。

鳥取城は頻繁な降伏勧告を拒否して秀吉の使者を斬り、城内にいた城下近隣の百姓たちは、食糧が尽き果てると飢え、城からのがれ出ると、秀吉はこれを鉄砲で射ち殺して城に留めさせ、城内の食料欠乏を早めさせた。太田牛一の『信長公記』では、城内では、殺された者の肉を城兵が奪い合って食べた、とある。

毛利の救援も至らず、籠城3ヶ月で城主吉川経家はようやく秀吉のすすめに従い、重臣以下とともに切腹を申し入れ降伏開城。尚、この中国戦線の途中、竹中重治は病死し、かわって黒田官兵衛孝高が軍師として登用されている。

秀吉は鳥取城をおさえると姫路城に引き上げ、越年して岡山に入り、備中高松城攻めを開始。高松城は三方に沼、外堀には川、城門に続く道は一筋であったため、大兵による攻撃では効率が悪く、城将の清水宗治も再三の降伏を拒否したため、秀吉は水攻めを敢行した。

穴攻め(地下トンネル掘り)や火攻め(放火)など、心理効果を狙う攻城手法に比べ、兵糧攻め(包囲して糧米搬入の道を断つ)や、水攻め(周囲に堤防を築いて城を完全に水中に孤立させる)は、確実に勝利でき、得る利益も大きいものの、切れ目ない手配りや土木工事を要する、極めて難解な攻城戦である。

秀吉がこの厳しい条件をやってのけた理由は、殺戮戦を好まず、創意工夫にも優れた元来の性格もあるが、中国戦線においては、戦前の調略だけでは必ずしも効果をあげず、攻撃段階には、敵地の経済制圧や兵站、補給を重視した点など、自軍の損傷を避ける目的があったと考えられる。

これは恐らく、信長から借り受けた軍や、同僚先輩の援助に気遣いながら戦を継続せねばならなかったためだろう。その後の秀吉の戦法は、この時に培った方法の繰り返しとも言える。

秀吉は、おりからの梅雨で足守川の水量が増す事を読んで、城の西方と南方に、其部約24メートル、上部約11メートル、高さ約7メートル、長さ約3千メートルに及ぶ大堤防を築き、山と堤の間に出来た大きな湖には、城は浮島のごとく浮かんだと伝えられる。

清水宗治は城や町屋から用材を募り、小船を三艘造って応戦。秀吉は大船を数艘海岸から運び、船上に櫓を設け、大砲をすえて攻撃した(大砲は弾丸が破裂するものがまだ無い)。

毛利軍の吉川元春と小早川隆景は3万を率いて救援して、高松城西方に陣し、秀吉は3万の兵力のうち1万を向けて対陣。睨み合う間、信長に来援を依頼している。しかし水中に孤立した高松城内の生活は苦しく、毛利氏と秀吉の間には和睦がもち上がっていたが、信長は明智光秀を先発させ、自身も趣く予定であった。

6月3日、その光秀が本能寺に信長を討つ。秀吉がこの事を知った経緯に二説あり、信長の家来、長谷川宗仁が飛脚を出したとも、夜、陣中の関所に捉えられた男が、光秀による毛利への使者であり、持参していた密書から変事が露見したともいう。

秀吉はこれを隠して毛利と交渉し、毛利領安堵、高松開城、清水宗治切腹の条件で和睦。6月5日、高松城を撤退。7日、姫路入城。この前後、毛利氏の小早川隆景は信長の死を知りながら、意識的に秀吉への追撃を与えなかったとも言われている。

秀吉は姫路城で軍備を揃え、信長の部下、丹羽長秀らと合流。長秀の協力も功を奏し、13日山崎合戦にて明智光秀と戦い、これを倒した。

「中国大返し」で有名な、この電光石火の秀吉の逆襲には、何らかの計算があったと見る見方も多く、何かと諸説が論議される所であるが、何しろその機動力の鋭さは信長譲りの感を世に知らしめ、また信長の仇討ちを果して、秀吉は織田家の部将内で優位を占めた。

丹羽長秀は、この時も他の織田家家臣らをおさえて秀吉の主導権確立に貢献。秀吉は、信長の清洲会議でも発言権を持ち、信長の後継者に、信長の長孫、三法師(のちの秀信。本能寺の変で二条城で死んだ信長の長子、信忠の子)を据えた。

秀吉の勢力増長に対し、織田家において筆頭家老職であった柴田勝家は、清洲決定に不満を持つ信長の子、信孝と計り、信長の妹、浅井長政未亡人(お市の方)と婚儀によって織田家親族に加わり、秀吉を牽制した。この年、秀吉は織田信孝を得意の水攻めで美濃竹鼻城に攻めている。

天正11年(1583)4月、勝家挙兵。勝家に属していた前田利家は、中立を貫いて秀吉に敵対せず、秀吉は電光石火の素早さで賤ヶ岳に勝家を討った。勝家は、その居城、北之庄城に後退したが、秀吉がこれを追って包囲しため、勝家は夫人お市の方とともに城内に自刃。

お市の方が城内に引き入れていた、浅井氏との間に得た3人の姫は城から落とされ、秀吉の保護を受けたのち、長女の茶々は秀吉の側室(淀君)となって、のちに鶴松と秀頼を生む。

秀吉は、明智光秀、柴田勝家、滝川一益の所領を加えて畿内全域の支配を果し、同年6月、かつて信長の城となった石山本願寺跡地に大坂築城の工を起こす(入城予定だった池田信輝は大垣城に場所変え)。

秀吉は多年、優れた部下や軍師も居たが、それ以上に自身が土木技術に精通し、築城の名人とうたわれる。

中でも大坂城は巨大な要塞であり、普請奉行に石田三成、増田長盛、浅野長政、作事(建築)に大工棟梁、中井正清。日々3万の人夫を施し、完成には3年の月日をかけた。

本丸、山里丸、二の丸、三の丸の四つの郭から成り、周囲13キロにおよぶ巨大建築であった。天守は5層8重、瓦には金箔が貼られ、「石材は各一以上に大きく、城壁は上から見下ろすと恐怖するほど高く、濠は深さ約10メートル、第二の濠も幅約76メートル」と、『オランダ東印度会社遺日使節記』(『モンタヌスの日本記』)に記述され、美しさ威容ともに天下無双と謳われた。

天正12年(1584)、前年より信長の子、信雄が徳川家康と結んだ事をきっかけに、秀吉は小牧山、長久手に徳川氏と戦ったが、この時も丹羽長秀の仲介があり、家康と和睦。この後、秀吉は家康に妹の朝日を嫁がせ、さらに母の大政所を人質に差し出すなど家康との協調につとめ、中部、東海にも勢力を及ぼすことに成功した。

朝廷からも認められ、翌13年(1585)、正二位、内大臣。7月に従一位、関白。

同年、四国征伐で長宗我部氏を降して四国をおさめ、雑賀一揆を攻めた紀伊太田城も水攻めによって攻略。翌14年(1586)には、太政大臣。姓を豊臣に改める。この年から翌15年(1587)にかけて島津氏を下し、九州にまでその支配を広めた。この頃、聚楽館(第)着工。

本能寺の変以来、毛利氏の小早川隆景も毛利氏の大勢力を秀吉支持に導き、四国、九州攻めでも活躍。こののちも、秀吉の最高補佐として重きをなした。

同15年、京都に聚楽館(聚楽第)完成。天正17年(1589)、側室となった茶々に淀城を造り与え、ここに住まった茶々は淀君と呼ばれた。

さらに天正18年(1590)、小田原征伐。前田利家をはじめ、秀吉によって動員された諸侯、兵士の数は天下未曾有であり、武蔵忍城(成田氏)を例外として、威容を誇った北条氏の各城を短期間に次々と攻略。長年、関東一帯の大勢力であった北条氏の跡地に家康を差し向け、また北条氏と連携していた奥州の伊達氏も服属させたため、名実ともに天下統一を果した。

この年、石垣山城着工。翌19年(1591)、先に淀殿が産んだ待望の実子、鶴松も夭折したため、養子にしていた姉の子、三好秀次に関白を譲り、自身は太閤と称した。

文禄元年(1592)、九州肥前に名護屋城を築き、明国征伐軍を編成。秀吉が派手好みに陥り、往年の才智を失い、老醜を現した証拠と言われる朝鮮征伐は、天下統一によって領土拡張への閉塞感が訪れ、国内の余分な兵力を外征に向けた事を指摘する人も少なくない。

日本軍に対し、軍備や兵器の劣った朝鮮側は各所で敗退を重ね、京城、平壌は陥落。翌2年(1593)、和議の運びを得て、名護屋に陣をおいた秀吉も大坂に戻った。

文禄3年(1594)、秀吉は完成した伏見城に移り(一度大地震でこわれたものの、築城し直し)、諸将も伏見に屋敷を構えさせると、ここで政治を行った。

淀君には既に秀吉の子、お拾(のちの秀頼)が生まれ、文禄4年(1595)7月、秀吉は、自身の後継者にして関白職にある甥の秀次を、突如、聚楽館から追放。後に切腹させ、その子女、妻妾30余人は三条河原に斬られている。

ちなみに、秀吉の後継候補としては、正妻、ねね(北政所)との間に子はなく、側室、淀君との間に鶴松はすでに他界。他に秀頼が生まれたのみで、異父弟の秀長は、広く人望を集めながらも先に病死(1591年)、信長の四男で養子の秀勝も、朝鮮で病死している。

また、北政所の兄の子、秀俊も秀吉の養子となっていたが、秀頼誕生の後は、小早川隆景に養子に出され(のちの小早川秀秋)、家康の次男、結城秀康も秀吉の養子になりながら、関東の結城家に養子として入った。

秀吉の閨閥(側室)には、淀殿(信長の姪)、松ノ丸殿(京極高吉の娘)、三条局(蒲生氏郷の妹)、三ノ丸殿(信長の娘)、姫路殿(信長の姪)、加賀殿(前田利家の娘)など、名門の出身者が多いため、卑賤の出の意趣返しとの見方が多いが、長年子に恵まれず、身内も少なかったため、婚姻外交に自らを使用したと見るのが妥当であろう。

また、元々武家の出でない事もあり、家来衆と言えば、親族衆、軍事官僚、行政官僚ぐらいに分けられるが、これもまた他の名門大名に比べれば、大雑把な機構であったと言わざるを得えない。

親族衆として、弟の羽柴秀長をはじめ、宇喜多秀家、小早川秀秋、浅野長政など。

軍事官僚としては、加藤清正、福島正則、細川忠興、黒田長政、加藤嘉明などで、彼らはよく尾張派、武断派などと称され、同じ尾張出身の秀吉の正室、北政所と親しかったと言われる。

行政官僚としては、石田三成、小西行長、前田玄以、増田長盛、長束正家、大谷吉継らがおり、加藤や福島との対抗図として、よく近江派、文治派などと言われ、北政所に対して、淀君に接近した派閥とも言われている。

しかし秀吉の特異な部分は、同朋であった前田利家は別格としても、毛利氏の小早川隆景や徳川家康など、一度戦った相手を最高顧問として招き入れ、政治の相談相手とした点であり、徳川幕府となった後の徳川家はこれを多少は模倣したものの、この特異性は秀吉の手本と言われる信長にすら見当たらない。

また、秀吉は信長に反して、宗教には宥和政策を取り、本願寺を京都に呼び寄せ、社寺の建立にも力を入れ、方広寺大仏殿は、東大寺よりも巨大に完成された。

さらに秀吉の大坂城、聚楽第には、純金造りの茶室、什器、小物にいたるまで、豪華絢爛が徹底され、舶来趣味も流行して桃山文化が花開き、様々な文化人が多数出る中、千利休が秀吉に召抱えられて、わび茶を完成させた。北野天満宮では大茶会、晩年の醍醐の花見には一般庶民まで参加を許されたと伝えられる。

慶長2年(1597)、一度和議をしていた明国との関係が破綻し、朝鮮へ再征軍を起こすが、翌3年(1598)5月、秀吉は病に倒れ、徳川家康にその孫娘、千姫を秀頼の正室に乞い、秀頼の行く末を諸将に繰り返し頼みながら、慶長3年(1598)8月18日、伏見城にて没。享年63歳。辞世句は、「露と落ち露と消へにし我が身かな 難波の事も夢の又夢」。

軍師、黒田孝高(如水)はすでに秀吉の側から遠ざけられ、頼みの綱の小早川隆景は先年に他界。秀吉の朋友、前田利家も、秀吉の死後すぐに他界。秀頼と千姫の婚儀は約束通り執り行われたものの、元和元年(1615)、秀頼が引き継いだ豊臣氏は、徳川家康とその子、秀忠によって、大坂城に滅んだ。

徳川氏はのちに、大坂城を豊臣氏の規模をはるかに上回る大城郭として構築し直し、現在に伝えているが、現在、復興された天守は秀吉の天守に面影が近い。

徳川氏ほど権力の座に近い存在はなかったにも関わらず、秀吉の死後、滅亡までに17年の歳月を要した理由として、まず豊臣家の保持した経済力があげられて良いだろう。

秀吉の直轄領は、生産力の高い摂津、河内、和泉、近江、尾張などに、北九州を加え、石高で222万石。全国の生産高の12%を占め、安土、京都、伏見、大坂は経済都市として栄えさせ交流させて、その動脈を一手に掌握。地域からの通行税、売上税、関税などを得た。

また、生野銀山をはじめ、全国の主要鉱山を開発、管理、直轄領とし、諸大名経営の金山、銀山からも税徴収した上、貿易では、貿易港の堺を直轄地とした他、新たに博多を重視し、鉄砲の弾薬となる鉛と硝石の輸入、生糸貿易を独占した。これら莫大な収入を得て、秀吉の晩年には、大坂城の金庫に黄金9万枚、銀16万枚が蓄えられたといわれる。