■ 藤堂高虎 ■


(1549〜1584)

藤堂氏は、近江源氏の支流という説と、藤原氏の支流という説があるが、高虎自身は土豪の出身であり、足利時代、藤堂氏の祖である三河守景盛が将軍家に仕えて、近江国数村の領主となり、藤堂という名はここから興っている。

弘治2年(1556)、高虎は、浅井長政に仕えていた藤堂(源助)虎高の子として、近江の藤堂村に誕生。幼名、与吉。通称は与右衛門。

元亀元年(1570)、高虎も長政に仕えて、姉川合戦に出陣している。初陣にして大手柄であったとも伝えられている。

その後、浅井氏が滅亡したため浪人したとも、その前に同僚の山本という侍と喧嘩をして殺してしまったから浅井氏を飛び出したとも言われるが、何しろ信長の甥、織田信澄に拾われ、さらに秀吉の弟、秀長に仕えて、三木城攻略などに参加している。

賤ヶ岳でも秀長軍にあって功を立て、秀長が没すると秀長の養子であった秀保に仕え、これの後見役として活躍。四国征伐、九州征伐、小田原征伐でも功を立てて大名に加えられ、正五位下、佐渡守に任じられた。

朝鮮征伐でも活躍は目覚しく、秀保の代理として、水軍の李舜臣らと戦った。

文禄4年(1595)、秀保が若くして没すると高野山に入り、剃髪する。これを秀吉が呼び戻し、宇和島城7万石を与えている。この頃より、高虎の築城の手腕が発揮され、宇和島城やこの後の今治の築城も名を知られている。

再度、朝鮮に渡った折には、巨済島における海戦で、日本水軍としてはじめて勝利。秀吉より感状を得ている。

秀吉の死の前後より、一早く徳川家康に近付き、関ヶ原では東軍で活躍したため、風見鶏などと言われてはいるが、この功により伊予半国であったのを、伊賀一国に伊勢8郡をあわせて22万石の大名となってる事は確かである。

慶長13年(1608)、津城に移るが、大坂の陣において長宗我部盛親の軍を撃退し、津では33万石にまで昇進している。従四位下、右少将。

この津城にも手腕が発揮されているが、この他に、伊賀上野、伏見、和歌山、篠山、大坂、淀、郡山、膳所、名古屋、また江戸城修築など、築城のみならず都市計画の才まで偲ばれる。

寛永7年(1630)、10月5日、75歳の生涯を閉じた。