■ 豊島泰経 ■


(?〜1477)

豊島氏は平安時代末期から続いた平家の名族と言われ、その祖豊島清光は源頼朝の武蔵入りに貢献。豊島次郎常家が武蔵国豊島、足立、多摩、児玉、新座、5郡を領して豊島城になり、室町時代は山内上杉氏の麾下。石神井川流域に豊島城、平塚城、石神井城などを建設して、かなり広大な所領をもつ国人領主であった。

常家より17代のちが泰経であるが、生年不詳。石神井城に誕生。父は新二郎経祐。

文明8年(1476)、山内上杉家の家宰職相続がかなわなかった長尾景春が山内上杉氏に叛き、古河公方足利成氏方に身を投ずると、これに呼応した勢力が、相模の溝呂木、小磯、小沢城や武蔵の勝原城も蜂起した。

もともと扇谷上杉氏の家宰、太田道灌が急速にのびてきて互いの所領が接するようになっていた泰経は、景春勢力に加担。弟の泰明とともに、太田道灌の江戸城、河越城との間を分断してのけ、これをきっかけに道灌は豊島氏の征伐に乗り出す。

文明9年4月13日、突如、道灌が豊島氏の支城の一つで、泰経の弟泰明が城を守っていた平塚城(東京都北区西ヶ原)を攻めた。石神井城(東京都練馬区石神井台)にいた泰経は、泰明からの連絡を受けて、道灌不在の江戸城を奪いとるため、平塚城救援には向かわず、江戸城を衝くべく出兵した。

泰経軍の動きを知った道灌は、城外に放火するだけで平塚城攻撃を中止。全軍を西に方向転換し、江戸城にやってくる泰経軍を迎え撃つべく進軍。4月14日、両軍は江古田原、沼袋原(練馬区、中野区、妙正寺川と神田川の合流点付近)で開戦。

泰経方は道灌を、平塚城から救援に来た弟の泰明と挟み撃ちにしたが、野戦を得意とする道灌は足軽を駆使して勝利。泰明と、板橋氏、赤塚氏などに150人ほどは戦死した。

泰経は、兵を本拠の石神井城に引き上げ、道灌は軍を石神井に向けたが、4月18日、泰経は道灌に降参を入れた。

しかし開城の条件で折り合いがつかず、21日、道灌が石神井城を攻略。このとき城内から道灌に内応があったと言われ、石神井城は落城。道灌はさらに練馬、小沢城なども攻略した。

泰経は、城の北、三宝寺池に愛馬とともに沈んだとも、その娘とともに身を投げて死んだとも、夜陰に紛れて逃げたとも言われているが、以後、豊島泰経の名はみられない。

豊島氏の子孫は北条氏や武田家などに仕え、やがて関東で天下を治めた徳川家にも、豊島氏の名が見られる。二家に分かれたものの明治まで存続した。