■ 立花宗茂 ■


(1569〜1642)

立花氏は大友貞宗の二男、貞載が筑前立花城に住み、立花姓を名乗ってより興った。

永禄12年(1569)、高橋鎮種の長子として筑前岩屋城に誕生。父、鎮種はこのとき大友氏に属していた。

天正13年(1585)、宗茂は立花鑑連の養子となって立花姓を継ぎ、立花城の城主となる。

同15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐の時は、秀吉に属して活躍。功により筑後13万石、柳河城主となる。

その後、小田原征伐、朝鮮の役にも出陣。碧蹄館の戦での武勇は、殊のほか有名であるが、元々勇猛で知られ、秀吉により、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と天下の勇者二人とまで名の上がった人物である。

関ヶ原において西軍に属したため、所領を奪われたが、慶長8年(1603)、江戸で徳川秀忠に気に入られて、3年後(1606)には奥州棚倉城に1万石で封じられた。

これにより、大坂の陣では徳川方に属すこととなり、この時の華々しい戦功により、元和6年(1620)、悲願の柳河城に、10万石の大身で見事に返り咲いた。

寛永19年(1642)、74歳で没す。