■ 滝川一益 ■


(1525?〜1586)

生年不詳。大永5年(1525)、近江の大原に伴氏の一族と言われる資清(資生とも?)の子として誕生、とも言うが、出自は明確でない。なにしろ近江国用賀郡の出身で、浪人中を尾張の信長に見出され、仕えた。

合戦を重ねるたびに戦功を立てて、永禄12年(1569)、尾張蟹江城主となる。

織田家においては伊勢方面の攻略を担当。信長の次男信雄とともに北畠氏討伐など。天正2年(1574)には、伊勢長島の一向一揆を討伐、殲滅。伊賀攻めにも功を上げ、北伊勢五郡を支配。蟹江城と兼ねて、長島城主にもなり、信長の重臣の座に加わる。「先駆けは一益、殿(しんがり)も一益」とうたわれるほどの勇将であったという。

天正10年(1582)、武田攻めには先鋒として参加。武田勝頼を天目山に破った功で、上州および信濃の二郡を与えられ、厩橋城(前橋)に移り関東管領を号す。信長の五人の軍団長の一人にまで数えられる。

しかし、同年の本能寺の変の折は、一益の重臣たちが信長の死を秘して京に上ることを促したものの、一益は関東諸将の人質を変換の上で事実を打ち明け、ともに力をあわせて反勢力である北条氏と戦った。

しかし、関東管領となってから、まだ3ヶ月も経っておらず、その上、さすがに信長の死による部下の動揺も去り難く、神流川の戦いで北条氏直に敗北。命からがら伊勢に逃げ帰った時には、すでに、いわゆる清洲会議は終わっており、一益は決定的に出る幕を失った。

翌11年(1583)、柴田勝家、織田信孝らと組み、羽柴秀吉と戦ったが、一益自身は篭城し孤軍奮闘したものの、勝家が敗北したため降伏する事となる。

秀吉に許され、近江5千石に封じられた後は、同12年(1584)、小牧・長久手の戦いで秀吉につき、伊勢と尾張に兵を挙げ、家康軍と戦った。しかし蟹江城を包囲され、降伏。これを恥じて出家し、亡命。

天正14年(1586)、不遇のうちに越前で死去。62歳。