■ 竹中重治 ■


(1544〜1579)

天文13年(1544)、美濃不破郡の菩提城に、竹中遠江守重元の長男として誕生。半兵衛と名乗った。

父は斎藤道三に仕えたが、重治は、永禄4年(1561)、斎藤竜興のもとで菩提城の城主となり一万石を領した。

しかし竜興と不仲となり、弟の重矩や安藤守就ら、わずかな兵で稲場山城を攻め落した。

竜興と敵対していた信長は、これを聞いて、重治に城を引き渡すよう申し入れたが、重治は聞き入れず、調停を入れて城を竜興に返還した。主君の暴挙を戒めるため、とも言われている。永禄5年(1562)から7年(1564)ごろにかけての事件と見られる。

永禄10年(1567)、秀吉が重治をたずね、信長への仕官を要請したため、織田家の配下に属し、秀吉の軍師となった。

重治は文武両道に優れ、その後の秀吉の戦略はすべて重治の策による、とまで言われている。また兵法家として、黒田如水(孝高)とも並び賞されるが、表には出ず、留守居をつとめる場面が多かった。

秀吉の中国征伐には同行し、播磨上月城の赤松氏を攻め、三木城の兵糧攻めの進言もしたが、天正7年(1579)、その陣中で倒れて三木城にもどり、同年6月13日病没。36歳。

一説に、重治には大望がありその心が言動に現れたため、秀吉もすべて心を許さず、常に手許に置き軍師としながら一国を与えなかった。これを知った半兵衛は、三木城落城ののちは高野山に入る心づもりであった、などと言われている。

しかしこの話は黒田如水に関しても、才能を妬まれ野望を疑われた、などの似た話があり、天下人にまでなった秀吉に対する、妬みの裏返しであるようにも思える。

重治は秀吉に「信長公は英智大才はあるが、温順でなく気風に偏りがある」と遺言を残し、秀吉は半兵衛の死を惜しんで泣いたとも言われる。とにもかくにも、半兵衛が軍師としてよほど才に優れた武将であった事は確かだろう。