■ 武田信玄 ■


(1521〜1573)

武田氏は八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の末裔で、義光が甲斐守として甲斐に来て以来、義光−逸見冠者義清(義光次男)−清光−信義(清光次男)。この信義が武田の地に住み、武田姓を名乗った。

信義は源平の時代、頼朝を助けて甲斐源氏の頭領格となり、以後武田氏は徐々に甲斐国を領して、代々守護職をつとめた。

信義から14代の信虎は親族との抗争に勝ち抜き、甲斐統一を果して戦国大名へと成長し、武田氏はまさに隆盛期を向かえた。ちなみに守護大名から戦国大名に脱皮した大名は他に、今川氏、島津氏、大友氏があげられ、これらと並んで大変な名家とも言える。

大永元年(1521)、信玄は信虎の長男として、石水寺山城にて誕生。母は大井氏。この時信虎は、駿河の豪族、福島氏が甲斐に侵入したためこれを迎え撃ち、福島を討ち取ったので、勝利に因んで、生まれたばかりの長男に勝千代と名付けたと言われているが、一般的な幼名は、太郎とされる。

武田氏の居館は躑躅ヶ崎館であり、一通りの武備を施してはいるが、万一の時には信玄の生まれた石水寺山城(積翠寺山城)を要害の地として立てこもった。信虎時代のこの頃には、居館としても用いられていたようである。海抜800メートル余り、要害山頂にあり、大きな天守や櫓は無いが、篭城の配慮をなし、詰めの城と言える。

天文5年(1536)、元服して晴信と名乗る。後奈良天皇の勅使により、大膳大夫信濃守に叙任。さらにのちに来た勅使、三条公頼の娘を妻に迎えたので、この正室は三条夫人と呼ばれる。

晴信には前妻として、河越城主、上杉朝興の娘が正室だった時期もあったらしく、これは早世したと見られる。

同年冬、父信虎は、海野口城の平賀源心を攻めたが攻めあぐね、いったん兵を引こうとしたところ、晴信は殿を申し出て、海野口城に取って返し落城させた。

平賀源心は武田氏と同じく新羅三郎義光の末で、「力七十人力」とも、「四尺三寸ばかりの太刀を使える」とも言われる豪傑であったが、信虎は晴信の戦功をあまり評価しなかった、などと言われる。

天文10年(1541)、晴信は、父信虎を駿河の今川義元に預けたまま、信虎の追放に及ぶ。

信虎は勇猛である反面、粗暴な振る舞いが多く、わずかの罪で重臣を手打ちにしたり、妊婦の腹を裂いて胎児の成育状況を調べるなど、残虐行為が多かった、と言われ、晴信は家臣や領民が武田家から離散することを恐れ、重臣とはかった上で計略をもってした、という所が一般的な解釈である。

また、信虎には八男八女があり、その中でも信虎は次男の信繁(左典厩)を愛し、晴信の廃嫡をもくろんでいた、などとも言われるが、これが真実であったとしても、この後から、のちの川中島の戦いで信繁が戦死するまで、晴信と信繁の間に亀裂は見られない。弟は他に、信廉(逍遥軒)、信実(長篠で戦死)、信龍などがいる。

天文11年(1542)6月、晴信は、高遠頼継に諏訪氏と争わせて、上原城に諏訪頼重を攻め、頼重が桑原城にこもると、そこも攻めて城と国を簒奪の上、降伏した頼重には死を与えた。

諏訪氏の領土は甲斐と隣接し、頼重は晴信の妹を娶って親族であった上、諏訪氏は代々諏訪大社の神官であった。晴信は、この頼重の娘を娶り子を成し、諏訪氏を継がせて諏訪四郎としたが、これがのちの武田勝頼である。

晴信(信玄)には七男五女(六女ともいう)があったらしく、長男義信(のち自害)、次男竜宝(芳)(出家)、長女と次女までが、母を三条氏としている。三男は早世。長女は外交として、いわゆる三国同盟により北条氏政に、次女三女は、穴山信君(ご親族衆)と木曽義昌にそれぞれ嫁いで、主に内政を支え、内外ともに充実した婚姻政策であったと言える。他の子女については、また後で触れる。

諏訪氏攻略後は連戦連勝。同12年(1543)9月、大井貞隆を攻め、同14年(1545)、高遠頼継を攻め、高遠城を攻略。同15年(1546)、信濃守護、小笠原家の一族、大井貞清の居城、内山城を落とす。同16年(1547)、北信濃の村上義清の属城、志賀城を落とした。

同17年(1548)、上田原に村上義清と直接対決した時はじめて敗北し、重臣、板垣信方戦死。

その後二年かけて挽回し、天文19年(1550)には林城の小笠原長時を追い、同20年(1551)、村上氏の属城、砥石城を落としたため、二年後の天文22年(1553)、村上義清を破って、ついに村上氏の本拠、葛尾城を攻略した。

居城と領地を奪われた村上義清、小笠原長時などは越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、川中島合戦が勃発。これも含めて信濃攻略戦に20年を費やした。

信玄は領国の防御体制をきわめて厳重に固める武将でありながら、一方で始終、行動的に他国へ進出を続けたが、その第一歩が信濃攻略であった。

甲斐は山に囲まれて守りには堅い一方、決して豊かな国でもなく、重農主義経済の時代にあって、攻撃は最大の防御という考え方に基づかざるを得なかったと推測できる。

また、後にいわゆる三国同盟を結ぶものの、武田氏には東に北条氏、南には今川氏という強敵の存在があったため、中小の豪族が割拠する信濃進出以外に道はなかったのだろう。

それだけに信濃攻めは、長期戦ひいては自国への併呑まで前提にしたかのような用意周到さが全てにおいて見られ、運輸、補給のため、甲斐と信濃の国境付近に建設された棒道は、あまりにも有名である。

さらに、好んで使われた孫子の旗に一端が現れる情報重視の点も有名で、領国内の要所に狼煙台を設け、ネットワークを張り巡らせたとともに、諜報手段に優れた組織(諸国使い番など=山本勘介がそうであったとも言われている)を有していた事も特徴として上げられ、謙信の出陣を甲府に居ながらにして、二時間以内に知った、とも言われる。

信玄の家臣団は、俗に言う武田24将が有名でもあるが、仕分ければ、まず親類衆に先に触れた弟や男子と穴山氏、木曽氏など。家老格に初期の板垣信方、甘利虎泰、のちに加えて馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信、小山田信茂、原昌胤、秋山信友。旗本とするなら、真田昌幸、曽根昌世。

他に信濃方面より真田幸隆、西上野の小幡衆、駿河の朝比奈氏、飛騨の江間時盛。のちに触れる駿河侵攻の際の水軍組織として、土屋貞綱、小浜景隆、向井正綱など。

信玄の生涯で10年以上もの歳月を費やす結果となった川中島合戦は、『甲陽軍鑑』には十数回に及んだように記されているが、2〜3回とも言われ、現在の定説として11年間に5回ほど、と言われている。

第一回は、天文22年(1553)8月、川中島一帯を晴信が得て、長尾景虎は春日山に引き上げた。

第二回は、弘治元年(1555)7月、 晴信は犀川の南岸、大塚に、景虎は信濃の善光寺城山に各々布陣。200日睨み合い、今川義元の仲裁で引き分け。

第三回は、弘治3年(1557)8月、晴信が上杉の属城、葛山城を落し、飯山城を攻めるところで、景虎が善光寺に兵を進め布陣したため、上野原で大戦、武田方の不利で撤退。

永禄2年(1559)4月、景虎の上京の隙に、信玄は出兵し越後に侵入。翌3年(1560)、上野に北条氏に追われた上杉憲政を援けるべく出兵した景虎の隙をついて、北条氏と結んだ信玄が、前進拠点として築いた海津城(のちの松代城)に入城。(ちなみに、この永禄3年は、桶狭間において、今川義元が織田信長に討たれた年である)

これを聞き、小田原城を攻めていた謙信は急遽帰国。永禄4年(1561)8月、春日山城を発し、川中島の妻女山に布陣。兵力約1万3千。

これが最も有名な、第四回の川中島合戦であり、すでに晴信は徳栄軒信玄と号し、景虎もこの年の3月、関東管領職につき上杉政虎を名乗っている。

出家は、以前より学問(とくに孫子)の師である長禅寺の岐秀元伯が立ち合った。これは甲府に開設した五山の内の一寺であり、信玄は関山派に帰依している。

以後、特別に宗派を限定した向きはないが、信玄は生涯神仏をよく保護し、神道の中では、源氏一門が崇拝する八幡信仰、今一つは武門の守護神、諏訪信仰であり、有名な孫子の旗「風林火山」とともに、「南無諏訪南宮法性上下大明神」を軍旗とした。

仏教では、のちの信長の叡山焼き討ちに対抗し、天台宗の延暦、園城と関係が深く、権僧正に任ぜられ、信玄も叡山の高僧をかくまっている。とくに重んじたと言われる臨済宗では、妙心寺派の高僧たちを甲斐に招き、中に恵林寺の快川招喜がいる。

なお、信玄の学問の知識は豊富で、四書五経、和歌、漢詩に通じ、絵画、書道にも長けていたが、弟の信廉(逍遥軒)は武将であるとともに、殊に絵画の才を持った人物でもある。

8月18日、信玄は甲府を出発。24日、川中島を挟み、妻女山の謙信と相対する茶臼山に布陣。兵力約2万。

9月10日未明、妻女山を下って善光寺方面に向かう上杉軍を、待ち伏せの武田軍が迎撃の形で開戦。当日早朝は広い一帯に深い霧が立ち込め、大軍同志の出会いの瞬間を、のちに頼山陽が漢詩に現して一躍有名となった。曰く、

「鞭声粛々夜渡河
暁見千兵擁大牙
遺恨十年磨一剣
流星光底逸長蛇」

この一戦は講談などでもよく持て囃され、特に、謙信が名馬、放生月毛に乗り、三尺六寸の太刀をふるっって、床机に腰掛けている信玄を切りつけ、信玄は軍配で受け止めた、という逸話はあまりにも有名になり、現地(長野市八幡原古戦場跡)には、今でも一騎討ちの銅像が立っている。

この折、謙信は三太刀切りつけ、信玄は二ヶ所の傷を負い、信玄の旗本、原大隈が信玄を救うため謙信の馬を槍で殴り、馬が狂奔して走り出したため信玄は危機を脱した、などとも伝えられてきた。

しかしこの合戦が長年持て囃された真の要因は、おびただしい死傷者を出しながら、勝敗が明確でない点であり、武田側からは信玄の弟、左典厩信繁、原大隈、諸角豊後、山本勘介など、戦死者を多く出したから内容的に上杉の勝ち、撤退したのは上杉軍であるから結果的に武田の勝ち、両陣の不利を見て総合的にいたみわけ、など、いろいろ言われてきた。

だが、結局のところ、信州の大半を手に入れたのは信玄であり、これによって山県昌景を飛騨に侵入させ、謙信は川中島に又もや出兵。

これにより、第五回は永禄7年(1564)8月とされているが、信玄が戦いを避けたため、川中島合戦はこれで終了した、と見なされる。

信玄の業績は戦国史の中でも特に秀れており、戦術、治世、人間管理、築城など、あらゆる分野に才能と処世述が垣間見られる。

その生涯において、信玄は努めて無用な戦いを避け、ことに領土を得られる確率の薄い戦いには手を出さなかった。その一方、謙信の越後も決して豊かであるとは断じがたいが、謙信は領土欲に薄く、合戦では勝敗を決する型を重んじる武将であった。両者の価値感の違いを考慮すると、一概には勝ち負けを断じにくい。

が、その信玄が、永禄4年の戦いのみ謙信と正面から雌雄を決しようとした事は確かで、その後、第五回の頃、長男の義信(母は三条夫人)と不和になり、義信を幽閉。やがて死に追いやった事情なども合わせ、さらにその後、駿河侵攻以後5年の命であったことを考え合わせると、この辺りが、信玄の番狂わせの始まりだったようにも思わされる。

義信の自殺は、永禄10年(1567)8月。義信の夫人は、いわゆる三国同盟によって嫁いで来た今川義元の娘であったが、一説に、信玄の今川討伐に義信が反対したためとも言われ、そこから義信に謀反の疑いをかけられた、などの憶測も出るようである。

また、駿河侵攻の動機については、上洛および天下統一のため、または資金不足ゆえに今川領の安部金山獲得を目指していため、など様々に言われている。

なお、資金源として何かと持て囃される黒川金山は、甲斐領国内山中にあったが、勝頼の代に生産量が減じたとも言われている。

後に生まれた、側室油川氏を母とする、信玄の五男盛信、四女・五女のうち、一女(信松尼)は、この今川領攻略の布石として織田信長の嫡子、信忠と婚約するが、のちに織田家との関係破綻により解消。

今一女は、これも後に書く信長包囲網強化のため、伊勢長島一向一揆の司令部、顕証寺一門と婚約。勝頼の代になり長島壊滅後に、上杉景勝に嫁いでいる。

永禄11年(1568)、信玄は北条氏と共同して上野に進出。その西半分を獲得して、東海道に侵攻の道を開く。同年、先に義元を失い勢力の衰えた今川家を、徳川家康と共謀して討ち、今川氏真を遠江に追った。(この年、織田信長上洛)

この時、遠江を家康、駿河を信玄、という先の密約により今川領を分割したが、駿河を手に入れた信玄は、元亀3年(1572)10月、兵2万5千を率いて上洛の途につき、遠江、三河攻略を目指して、今度は家康と対決。この後の信玄の動きは、浅井、朝倉、本願寺との連携による、いわゆる織田信長包囲網へと繋がっていく。

遠州に入ると徳川氏の諸城を攻略。12月22日、家康2万の軍と三方ヶ原に決戦。信玄の大勝により戦陣に越年。

またこの上洛戦では、信玄は優勢であり、飛騨、東美濃、東三河、遠江など、全線にわたって織田、徳川の勢力圏を侵食しぬいている。ここまでに信玄の版図は最大となり、越中の一部も加えると、九ヶ国にまたがる拡大を遂げ、同時期の信長には劣るものの、石高約130万石、動員兵力3万人。

兵力に関しては、騎馬軍団が有名であるが、特別に騎馬軍団が存在したわけではなく、もともと甲斐には馬の放牧が多く、甲斐の黒駒は有名でもあり、名馬には恵まれたようだが、軍団組織(足軽、槍、弓、騎馬)の諸要素の中で、騎馬の比重が他国よりやや多かったにすぎない。

むしろ信玄の得意戦法は、騎馬組織による敵軍の撹乱(騎馬団の突破力を利用し、敵の隙をついて兵を用いる術)であったと思われ、このような、勝利より不敗に徹した作戦は信玄には多く、特に三方ヶ原にはよく見られるとも言う。

天正元年(1573)1月11日、三河野田城を攻略途中に病を得て、甲斐に引き上げる途中、信州伊那の駒場において、4月12日永眠。53歳。

信玄の死因については諸説あり、結核とも肺炎とも言われ、胃癌を唱える人もいる。また『三河後風土記』には、野田城攻略途中、城内の村松芳体なる笛の名手の笛の音に、信玄が心動かされて夜毎聞き入り、これを鳥井三佐衛門なる鉄砲の名手が射撃したところ、信玄の耳を撃ち砕き、この傷がもとで死亡した、ともある。

長い間患う病なら、無理を押しての上洛という不可思議な行動に疑問が残る。笛と狙撃の逸話は、他にも聞くものであり、あまりにも作り話めいているようではあるが、急死でなくては納得できない、後世の人の心理も一因するように感じられる。

また、よくよく有名な信玄の遺言、「三年喪を伏せ」も、上洛戦を考えると疑問が残る。

跡を継ぐこととなった四郎勝頼は、正式な後継者とされてなかったとも言われているが、天正2年(1574)には美濃の明智城、遠江の高天神城を落すなど、一時期、信玄の版図をさらに広げたものの、翌3年(1575)には三河長篠城を囲んで、徳川・織田の連合軍と戦う事になり、長篠合戦において、山県昌景、内藤昌豊、馬場信房など、信玄以来の30人もの重臣を戦死させた上で大敗北。

凋落の中で勝頼は北条氏と結び、勢力の挽回をはかったが、家康と信長の攻撃に親族や家臣の離反などあいつぎ、天正9年(1581)7月、躑躅ヶ崎館と石水寺山城を去り、西北16キロ先の要害、新府城を建築。一説に穴山信君(梅雪)の献策とも言う。

よく、信玄は国内に自分の城を持たず、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉まで残されているかのように流布されるが、むろんこれらは真実ではなく、新府城の築城が、すなわち信玄と考えを異にするというのは当てはまらない。

が、この話の出典は『甲陽軍鑑』であり、この書は、当時の戦争、政治、生活の記録として全30巻にわたって信玄の武将、高坂昌信が残した記録を、甲州流軍学者の小幡景憲が編纂したと言われている。

また同じく『名将言行録』にも、信玄が国内に城を作らなかった、居所は構えも堀も浅く、堀は一重のみ、とした上で、これを心配する老臣たちに述べた信玄の以下の言葉が書かれている。

「史実に城にこもって運を開いた例は少ない。(中略)三ヶ国ほどの大将なら、大きな城に兵力を温存するより、国境で勝敗を決するべきで、大将というものは、兵士を敬い、法度、軍法を定め、合戦を朝夕の仕事と心得、城を造るより作戦を考えるのが大切」。

この一方で、以下の付け足しもある。

「しかし8〜9日ほどの道のりにある国境の城は堅固な地を見立て、丈夫に普請すれば、敵の包囲にも援軍を出して決戦できる、城が堅固でなくては援軍は出せない。合戦と城取り築城は、車の両輪のようなものだ」

勝頼の場合、逆に城を守りぬく兵力に欠けたため新府城での篭城を諦め、これに火をかけざるを得なくなったのだろう。

新府城を出た後、勝頼は天目山に登ろうとしたところ土豪の反抗にあい、天正10年(1582)3月11日、田野にて織田軍の攻撃を受けたため一族自刃。勝頼37歳。勝頼嫡子、信勝(母は織田氏)16歳。これにより武田家滅亡。

夫人北条氏には、その実家である小田原への逃亡を勧めたが聞き入れず、これも自害19歳。

余談ながら、この天目山の周囲には、武田家埋蔵金伝説が多いと言われている。武田氏終焉の同年、家康の紹介を得て、武田家の親族、穴山梅雪が信長に進呈した金2000枚(現在にして50億円ほど)などが、風聞の元なのだろうか。