■ 高山重友 ■


(1553〜1615)

天文22年(1553)、松永久秀の家臣で大和国沢城の城主、飛騨守図書友照の長男として、摂津高山に生まれた。一般的に、右近という名乗りが通例であるのは、「重友」の他に、友祥、長房などともいうからであるらしい。ここでは通例通り、右近と呼ぶ。

父友照は松永久秀、のちに和田惟政に従い、大和宇多郡沢、摂津島上郡芥川、高槻城主となり、永禄6年(1563)、宣教師ロレンゾから洗礼を受け、キリシタンとなる。

続いて右近も、翌7年(1564)、沢城にて洗礼を受け、ジュストとなる。以後キリシタン大名として有名。

高槻城の城主、和田惟政が死ぬと、家督を継いだ惟長に仕えたが、敵方だった荒木村重と通じて高槻城を乗っ取り、惟長を追放(一説に、惟長に暗殺されそうになったからだとも言う)。天正元年(1573)、村重から高槻城を与えられて、これを居城とした。

天正6年(1578)、村重が信長に反旗を翻した時、はじめは妹と長子を人質に差し出して荒木氏に従ったものの、信長と和を結んだため、形勢不利となった村重は敗走。

この後は信長の信頼を得、信長の死後は秀吉にも従い、ともに明智光秀を山崎に討ち、高槻4万石を安堵。安土の焦土から落ち延びてきたキリシタン信者を収容し、以後、高槻はキリシタンの一大拠点となった。

賤ヶ岳、小牧長久手にも出陣し、天正13年(1585)、秀吉によって高槻を没収され、播磨明石に移転。

天正15年(1587)、九州征伐ののち、秀吉がキリシタンを禁じると、右近は改宗を迫られたものの拒み、明石城も没収されて、小西行長、前田利家などの保護を受けるにいたる。

関ヶ原合戦では、前田利長に従ったため、東軍に属して徳川家にも貢献したが、家康の禁教令により国内に留まれず、慶長19年(1614)11月、妻子とともにマニラへ追放。翌、元和元年(1615)、マニラにて没。武将としても茶人としても優れた才能を発揮し、利休七哲に加えられている。63歳。