■ 鈴木重秀 ■


(?〜?)

生年不明。一般に雑賀孫市(孫一)の名で知られるが、姓は平井とも鈴木とも言われ、孫市は伝承上の人名とも言われている。

雑賀は、和歌山市紀ノ川河口の三角州を中心とする一帯で、ここを拠点とする土豪集団を雑賀衆という。

雑賀衆は独特の集団指導体制を敷き、幾つかの組に分かれて統率され、重秀自身は雑賀における新興土豪層(国衆)の子とも言われ、年寄衆にすぎないが、紀ノ川北岸に本拠があったという伝承もあり、頭目の一人ではあったらしい。

この地をおさめた畠山氏には内紛が続いたため、雑賀衆は本願寺を盟主とたのんだ。ゆえに一向宗徒であるが、その一方、大量の鉄砲を得、豊富な水軍力を持ち、石山本願寺の中核軍事力として永年信長を苦しめた。財源はわからないが、堺港よりの経済効果や、志摩にも近いため水軍調練を果せたのかもしれない。

元亀元年(1570)9月、根来衆とともに鉄砲をもって信長の軍に立ち向かい、天正4年(1576)、木津砦をめぐる攻防で織田軍を破り、原田直政を討ち取った。

信長は、同5年(1577)、雑賀攻めを開始したが、雑賀衆は執拗に抵抗し織田軍を撤退させた。この折か、戦勝を祝って雑賀踊りが発生したと言われる。しかしその後、雑賀衆は降伏。この後の重秀の消息はわからない。

秀吉の時代になると、秀吉が太田城という城を水攻めし、攻防ののち城の者は自刃し開城したと言うが、この中に重秀の名は無く、すでに信長に降伏し、秀吉とともにあったともいう。

『紀州雑賀衆鈴木一族』によると、天正9年(1581)、孫市なる人物の継父が、同じ雑賀の実力者で、孫市の妻の父である土橋平次なるものに討たれたとあり、また孫市の妻は雑賀荘の福島村、藤木氏の娘だったともいう。

いずれ雑賀衆の主導権と土地を争ったものであるらしく、天正10年(1582)1月、孫市が土橋平次を橋の上で討ち果たしたとも記録されるが、これが重秀なのかどうかわからない。

なお重秀は、石山開城後は秀吉に従ったとも言われているが、没年も不明のため詳細は全くわからない。