■ 島津義弘 ■


(1535〜1619)

義弘は、天文4年(1535)、島津貴久の次男として、鹿児島伊作城に誕生。幼名又四郎、忠平。

永禄9年(1566)、貴久が剃髪して伯囿斎と号し、義久が後を継ぐと、義弘は義久に代わって日向の伊東義祐と戦った。

天正13年(1585)、男子のいない兄義久から家督を継ぎ、義弘は17代目として豊前、豊後の太守、大友宗麟を制し、肥後、筑後、筑前に縄張りを広げる竜造寺隆信を島原で破る。

同14年(1586)、将軍足利義昭より一字を許され、一時、義珍と名乗る。(のちに義弘に戻る)

天正15年(1587)、大友氏の府内(大分市)を占領するが、この後、大友氏の訴えによって、豊臣秀吉が和議を勧告。義久は全九州の領有を主張して受け容れられず、秀吉の島津征伐の口実となった。

豊臣軍は20万の大軍をもって攻め込んで来たため、一族をもって大いに奮戦し、緒戦においては勝ったものの、やがて後退。ついに降伏したが、次弟歳久のみ一人抵抗して切腹させられ、末弟家久も急死。毒殺との説もある。長兄、義久は薩摩、義弘には大隈と日向を安堵となり、改めて56万石に封じられる。

朝鮮出兵では、軍役として兵1万5千、槍300本、鉄砲500丁、弓3500張、他に馬、旗指物など。義弘は嫡子の久保とともに1万を率いて出兵。南原(ナンセン)城、泗川(サテン)城などで戦う。

泗川城において、明の大将薫一元は20万の大軍を率いて島津軍を攻撃したが、義弘は家久とともに全軍を励まし、大砲を有効に活用。反撃の末、晋州川まで追撃して破り、敵兵の首、3万8千をあげたため、明軍に「鬼石曼子」と恐れられたと言う。

慶長3年(1598)、8月16日、秀吉が伏見で死に、朝鮮部隊が次々と引き上げる中、義弘は殿軍となって追撃する朝鮮水軍と戦って李舜臣をたおし、12月10日博多に帰った。

慶長5年(1600)、9月15日未明、関ヶ原においては、島津軍は西軍についた。この経緯について、『寛政重修諸家譜』には、以下の説明(要約)がある。

会津の上杉景勝を討つため徳川家康が東上したとき、徳川氏の伏見城を義弘に預けて守らせる約束をしたのに、なぜか家康からその連絡が来なかった。その後、大坂城に在ったが、石田三成が徳川家康を討つとして、義弘を味方に誘った。義弘は返事をしなかったが、再三の五奉行からの要請により、やむを得ず説得に折れた。

このとき、甥の島津豊久は東軍の有利を進言したが、義弘は誓約を破ると島津は天下に信用を得ぬ、とする一方、家康の恩義も忘れず、とも言い、よって大軍を国許から呼ばず、戦死する覚悟を告げた。国には兄義久(竜伯)、嫡子家久もおり、自分の戦死は差し支えないとして、まず、伏見城攻撃に参加した。

この事により、伏見城の落城後は、大垣城に入り、攻撃されればこれを撃退する小競り合いはあったものの、積極的な戦闘を行っていない。また、義弘をはじめ甥の豊久を含めた約370人の武士、千人余りの雑兵を従えたのみで、この後の関ヶ原合戦まで参陣したのである。

この奇妙な行動の裏に、再三提案した義弘の奇襲あるいは夜襲作戦を、悉く取り上げられなかったなど、石田三成との不和が取り沙汰されているが、義弘が西軍の負けを見越して部下の損傷を避けていた、とも言われている。

島津隊は、石田三成の本陣のある笹尾山の山麓から、北国街道をへだてて陣を敷いた。辰の刻(午前8時)、霧が晴れると、両軍先鋒から起きた鉄砲の発射音を合図に先端は切り開かれた。

開戦前、すでに小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保などの部隊が裏切りに乗ずる手筈だったと言われ、また、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親などは傍観に徹した。

この開戦において、島津軍の面目躍如たる所以は、大勢が東軍に決した未の刻(午後二時)をすぎたころであり、三成の本隊をはじめ、西軍のほとんどが崩れ敗退しはじめていて、島津軍はここまでにほとんど兵力を動かさずに損傷も無かった。

徳川方からは本多忠勝が島津軍に襲い掛かり、義弘は家康の首を取るか討ち死にするまで戦おうとしたが、甥の豊久が諌め、本多忠勝、井伊直政、松平忠吉など徳川麾下の軍勢を一団をもって強行突破。南下を企てた。世に名高い「島津の退き口」である。

追いすがる徳川勢と豊久は繰り返し戦い、戦死。徳川方では井伊直政が島津軍の鉄砲弾を受け重症。直政はこれが元で、二年後に死去したと言われている。

井伊隊を切り抜けると、義弘は陣を立て直し、河上忠兄を使者として家康に遣わし、「道にそむく罪を恐れ、陣頭をよぎり国に退くことを上聴に達す(略文)」と言上した、などと言われている。

主従わずかに80人となり、伊賀を抜け泉州堺に向かい、7日後の9月22日、来合わせた薩摩の船で船出。大坂城に人質になっていた義弘や子、家久の夫人も、大坂在住の家来たちのはからいで西宮沖で合流。29日に日向の細島に帰った。

10月3日、大隈、富隈城で義弘隠居。兄、竜伯と相談の上、家督を子の家久(忠恒)に譲り、維新と号した。桜島に蟄居し、家康の赦免を待つ。

家康は一時、島津征伐を考えたようだが、豊臣氏のある内は控え、領国安堵とした。

慶長9年(1604)2月、家久は琉球に途絶えている来貢を促したが、琉球王尚寧は応じず、義弘は慶長12年(1607)、桜島の対岸、加治木に居館を構え、優雅な隠居生活を送っていたが、同14年(1609)の琉球出兵などでは、影から多くの献策をした、と言われている。

この出兵は、徳川氏の了解を得ており、同年2月、樺山久高を大将、平田増宗を副将として、兵3千と軍船を琉球に向かわせたが、徳之島に戦端を開いてより、千人あまりの島人のうち300人余りを戦死させた。

同年4月、本島に達し、多大の抵抗にも関わらず首里を落す。国王尚寧を家康、秀忠に会わせるため江戸まで引き連れて、琉球支配権を取得した。なお、薩摩藩は、家久を初代藩主としており、前田氏に次ぐ77万石を領した。

島津氏の対明貿易は有名であり、中国、朝鮮、琉球以外にも、鉄砲やキリスト教の上陸地として、西洋にも開かれた玄関口を確保し、貿易によって巨万の富をあげたと言われる。薩南地方には唐人町も幾つか出来た。

また義弘は茶の湯を愛し、千利休の弟子となっている。著作に「維新公御自記」。神仏崇拝に篤く、高野山に朝鮮の役の両軍戦没供養を行っている。

元和5年(1619)7月21日、大隈加治木で病死。85歳。従四位下、島津少将。同日、桜島噴火と伝えられる。