■ 島津義久 ■


(1533〜1611)

島津氏の初代忠久は、源頼朝の庶長子であり、母は伊豆の比企判官能員の妹、丹後局であった。また一説では、日向守惟宗広言と京都にいた比企能員の姉、丹後内侍との間に生まれた子とも言われている。島津家の系図においては、頼朝庶子は誤り、とされている。

忠久は近衛家に仕え、元暦2年(1185)、薩摩、大隈、日向の三国の内、近衛島津の荘の下司職に任じられた。同時期、伊勢国、信濃国の地頭職も兼任。建久8年(1197)、将軍頼朝より、薩摩、大隈の守護職を命じられ、日向の守護も兼ねた。ゆえに島津氏は、戦国大名の中でも有数の格式と伝統を誇る。

はじめ木牟礼城の居城を構え、のちに島津氏を名乗る。その後、忠時、久経まで鎌倉などにいたことが多く、不在中は守護代に守らせていた。

島津氏には居城を移すことが大変に多く、一代で城を何度も変えた当主が相次いだ。大まかに言っても、6代氏久の頃から木牟礼城から諸県内城、諸県高城、清水城などによく移り、15代貴久に来て伊作城をよく使うようになった。

14代勝久の代までに分家が地方に割拠する動乱の時期を迎え、薩州島津氏が勢力を拡大して本家を圧迫。勝久は伊作島津氏である忠良(日新公)に後事を託して隠居。忠良の嫡子、貴久が勝久の養子となる形で島津本家を継いだ。

島津氏は貴久までの代に、薩摩、大隈など国内に割拠した豪族の平定に追われたが、貴久は島津氏の基礎を作り、ポルトガル人にもたらされた種子島の実戦使用、宣教師ザビエルへの布教の許可など、歴史的事蹟を残している。

また、島津氏には学問、文芸の素養も高く、室町末期、禅僧の桂菴玄樹による朱子学、薩南学派が興っている。

天文2年(1533)義久は伊作にて誕生。島津氏の主城は、鹿児島市内の清水城(稲荷町と清水町あたり)だが、貴久は一時伊作城に城を移しており、義久、義弘、歳久、家久の四人兄弟とも、伊作で誕生した。

永禄9年(1566)、貴久から家督を継いだ義久は、弟の義弘らとともに対外拡張に乗り出し、元亀3年(1572)、日向の伊東義祐を木崎原合戦で撃破し、日向を制圧した。伊東氏は豊後に逃亡し、大友義鎮(宗麟)を頼った。

天正6年(1578)、大友、伊東が南下して日向中部まで進出。高城を包囲するが、義久らの援軍が到着すると敗走し、耳川において渡河できず、ほぼ全滅。宗麟のみ辛うじて豊後に逃れた。これを機に大友氏は衰える。

天正9年(1581)、肥後の相良氏を討ち、翌10年(1582)、阿蘇氏、合志氏らを服属させ肥後平定。

天正12年(1584)、島原の有馬氏を救援するため、弟、家久を派遣。龍造寺氏の大軍を破り、当主、隆信を討ち取った。さらに筑前に進出。筑紫広門や高橋紹運を下す。

島津氏の得意とした戦術に伝統的な「くり抜き」があり、魚麟や鋒矢など突撃型で野戦特有の陣形と言われている。また、龍造寺氏と戦った島原合戦においては「釣り野伏せ」という伏兵、奇兵の類を組み合わせた戦術があり、さらに大量の鉄砲を駆使した点も特徴的と言える。

天正13年(1585)、義久に子が無かったため、弟義弘に家督を譲る。

島津家は下克上の戦国期においては珍しく親子兄弟の衝突が無く、義久、義弘、歳久、家久の四兄弟の結束は高かった。また義久は、和歌や連歌にも秀で古今伝授を受けており、桂菴玄樹による朱子学、薩南学派の流れで南浦文之らに師事している。

義弘が長兄として島津氏の全体を統轄しつづけたのは、ほぼ間違いないが、これ以後については、義弘の方で語ることにする。

文禄4年(1611)、正式に引退し、龍伯と号す。従四位下、修理大夫。慶長16年(1611)、大隈国分で死去。79歳。