■ 島勝猛 ■


(?〜1600)

生年不詳。通称左近。

当初、筒井順慶に仕え、伊賀上野城を預かっていたが、順慶の死後、その養子、定次と対立し浪人。豊臣秀長、秀保に仕えた、という。

秀保の死後、石田三成が勝猛の武勇と参謀能力を見込み、1万5千石という破格の待遇で誘い、以後、三成の重臣となる。この時三成は4万石であり、その知行の半分を与えた、などとも言われているが、不明。

勝猛の名が後世に残った所以は、関ヶ原における奮戦であり、合戦の前哨戦である杭瀬川では、中村一栄らを破り、関ヶ原合戦では石田軍の先陣として、黒田、加藤隊を相手に采配した。

黒田長政は、勝猛を破れば勝機ありと見て特別に狙撃部隊を編成し、戦場を迂回して後方から一声射撃を加え、勝猛はこれにより負傷し、乱戦に揉まれて戦死した、などと言われているが、詳細がわからない。