■ 柴田勝家 ■


(1522?〜1583)

生年不詳であるが、大永2年(1522)、尾張に生まれ、斯波氏の一族とも言われる。幼名は権六。

はじめ織田信長の弟信行に仕え、弘治2年(1556)、林通勝とともに信行を擁立して信長に謀反するが失敗。その後、信行の謀反を通報して信長に許され、あらゆる戦いのたびに信長の先鋒として軍功を立てた。

伊勢長島の一向一揆や、越前小谷戦など、数々の働きがあり、「掛かれ柴田に、退き佐久間」など、鬼柴田とも呼称される。織田家の筆頭家老職。

六角承禎との戦で、長光寺城に篭城したとき、糧米、飲料水が尽きてくると、甕を割って残りの水をことごとく流し捨てたため、返って味方が決死の覚悟となって敵を破った、という故事もある。

天正3年(1575)、信長が越前を平定したのち、北之庄城にあって越前を治める。

また、信長麾下の佐々成政、不破光治、佐久間盛政、前田利家らを率いて、加賀一向一揆も平定。能登、越中に進出し、上杉景勝と対峙。ゆえに、本能寺の変では動けず、秀吉の明智光秀討伐に遅れを取った。

これがため、信長の後継者に三男の信孝を擁立しようとしたが、清洲会議においては秀吉に主導権を握られ、信長の第一の宿老として、信長の妹お市の方(浅井長政未亡人)を娶り、秀吉との対立姿勢を深めた。

勝家はここまでに、越前、加賀、能登、越中に加え北近江地方の180万石程度を領し、美濃の織田信孝、伊勢の滝川一益らと反秀吉派を形成。

天正11年(1583)、織田信孝、滝川一益らと秀吉を討つべく越前に兵を挙げたが、岐阜から急遽引き返した秀吉と賤ヶ岳において決戦し、大敗。北之庄城に逃れたが、秀吉軍に追撃され、4月24日、お市の方とともに自刃。推定62歳。