■ 里見義堯 ■


(1507〜1574)

里見氏は元は新田氏の出であり、室町時代中期ごろ、安房に進出して館山に本拠を構え、大永2年(1522)4月、上総久留里城を築いた。

義堯は、永正4年(1507)安房に生まれる。天文2年(1533)、同族同志の争いから、父実堯が安房稲村の戦いで死んだ仇を討つため、翌3年(1534)4月、稲村城に従兄弟の里見義豊を討ち取った。

一方、北条氏に備えて、房総の二州を併呑、安西、竜崎、菅野谷の諸氏と組み、天文7年(1538)10月、小弓公方の足利義明と連合、下総から兵を進めて北条氏綱父子と国府台で戦い、大敗を喫した。

以後、北条氏との戦いは続き、天文21年(1552)、土岐頼定の働きで北条方の武田信政を椎葉城に攻め、自刃に追い込んだ。

これを機に失地回復につとめ、同23年(1554)、氏康軍と浮渡川に戦い、翌24年(1555)に再度戦った結果、大勝。ここに里見義堯の武名が回復した。北条氏についていた豪族たちも、里見方に帰参するものが多くなった。

晩年は出家し、久留里城にあったが、天正2年(1574)6月1日没。63歳。