■ 佐竹義重 ■


(1547〜1612)

佐竹氏は、源義光が常陸介となり、その子、義業が佐竹郷(常陸太田市)を領したのにはじまる。室町時代、関東評定衆の頭人として頭角をあらわすが、支族、山入氏と百年にわたって抗争。16代義舜が流浪の末に、ようやく終止符を打つ。

義重の父、義昭は、白河の結城晴綱、会津の芦名盛氏と戦い、山入氏との内乱の間に失った旧領を回復、拡張する。永禄4年(1561)、上杉謙信が小田原の北条氏を包囲した際も参陣している。

義重は、天文16年(1547)、常陸に常陸介義昭の長男として誕生。

永禄5年(1562)、家督を継ぐと、常陸平定の戦いに乗り出す。常陸太田城を本拠に、下野の宇都宮氏と結び、小田原の北条氏と対抗。下野、陸奥に勢力を伸ばした。

南に北条、北に伊達の構図は長い間つづき、反北条で上杉謙信と同盟を結び、北条氏康、氏政と再三にわたって戦うが雌雄は決せず、また伊達政宗とも、相馬氏や芦名氏と連合し、三度の激戦の末、その南下を制した。

織田信長が甲斐の武田氏を滅ぼすと、信長に服し、信長の死後は秀吉に通じて、あくまでも北条氏と鹿沼、鳥井戸で戦い、伊達政宗が北条氏と組むと、政宗とも岩代二本松城で戦った。

子の義宣に家督を譲っても、なお政宗との戦いは続け、天正18年(1590)、小田原征伐にも加わって、石田三成とともに、北条氏の上野国の属城や、武蔵鉢形城を攻めた。

同年、江戸氏から水戸城を奪い、居城とする。その版図は常陸、下野、陸奥にわたり、55万石を誇った。その躍進を久慈金山が支えた。

北条氏が滅亡した後も、奥羽征伐にも加わり、翌19年(1591)には、九戸氏の乱にも一方の将として活躍。この年、長子義宣は水戸城に移り、文禄4年(1595)、54万石を安堵される。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、石田三成との親交から西軍につき、実際は動かなかったものの、敗退後は出羽秋田に国替えされ、20万5千石に減封。

同17年(1612)4月19日、秋田で没。66歳。なお、正室は伊達政宗の祖父、晴宗の娘である。子の義宣は秋田佐竹藩の藩祖となり、明治維新まで存続した。