■ 佐々成政 ■


(1539〜1588)

佐々氏は、源頼朝の御家人、佐々木盛綱を先祖とし、上総佐々荘を領していた。

佐々成政は、天文8年(1539)、尾張春日井郡の比良村に、佐々盛政の次男として誕生。通称、内蔵介。父の代から織田信長に仕え、兄、隼人正は桶狭間の合戦で討ち死。

永禄10年(1567)頃、直属の家臣団から、有能の19人を親衛隊の黒母衣衆、赤母衣衆に抜擢したが、成政はこの内の黒母衣衆10人の筆頭となった。

天正元年(1573)、朝倉攻めに従軍。同3年(1575)、一向一揆討伐の功を認められ、越前半国を与えられる。また、柴田勝家の北陸方面攻略に属して上杉氏と戦い、長篠合戦では、武田勢を相手に鉄砲隊を指揮。同9年(1581)、織田氏が越中を平定すると、越中国守護として富山城に入った。

信長の没後、秀吉が明智光秀を倒してにわかに台頭してくると、織田家の譜代家臣である成政はこれに反発。賤ヶ岳では柴田勝家に味方するが、上杉氏への抑えに削がれて動けず、その後、秀吉に対抗した家康と織田信雄が手を組むと、これに呼応し、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いでは加賀の前田利家を攻める。が、末森城の戦いで惨敗。

その後、秀吉と家康の和睦を聞くと、家康に再挙を説くべく、天正12年(1584)12月、雪中の立山沙羅峠を越えて、浜松の家康をたずねた。が、すでに和睦のなった家康に拒否される。

秀吉は成政のこの振る舞いを許さず、翌13年(1585)8月、大軍をもって富山城を攻め、孤立した成政は敗退。剃髪して開城した。

その後、天正15年(1587)、秀吉の九州征伐には従い、ようやく陸奥守に任ぜられ、肥後一国54万石に封じられたが、ここでも成政は秀吉に背いて検地を強行し、国人一揆を誘発する。

この時の一揆は、周辺を揺るがす大規模な騒動に発展し、小早川隆景の援軍をもってようやく鎮圧。成政は責任を問われ、再び所領を没収され、天正16年(1588)5月14日、摂津尼崎で自刃。50歳。