■ 真田幸村 ■


(1567〜1615)

永禄10年(1567)、信濃上田城にて、城主真田昌幸の次男として誕生(長男は信之)。本名信繁。

本能寺の変のあと、父、昌幸が徳川の大軍を迎え撃つため、上杉景勝を後ろ盾とするため、次男である幸村は、景勝の元に人質に出された、と言われる。

その後も、豊臣秀吉に臣従した真田家は幸村を秀吉に差し出し、秀吉は幸村を小姓に加えて目をかけ、幸村は秀吉の家臣、大谷吉継の娘を娶っている。

慶長5年(1600)、石田三成が挙兵の際、兄信之は東軍の徳川方に、父昌幸と幸村は西軍の石田方にそれぞれついた。

昌幸と幸村は上田城を守っていたが、西上してくる徳川秀忠の軍を阻止する事に成功した。しかし関ヶ原において西軍が敗れたため、父昌幸とともに所領を召し上げられ、紀州高野山麓の九度山に蟄居。

父昌幸の死後、慶長19年(1614)、大坂冬の陣には、豊臣秀頼の招きと大野治長の要請に応じ、大坂城に入り、城南に真田丸を築かせ、それを出城として活躍。12月4日、徳川方の松平忠直、前田利常、井伊直孝らに大打撃を与えてより、一躍天下に名を轟かせた。

翌年(1615)夏の陣では、後藤又兵衛基次らと大和口を固め、5月6日、伊達政宗の大軍を撃破。翌7日、茶臼山の家康本陣を三度急襲し、のちに「真田日本一之兵」と称賛されるほどに追い詰めた。家康も一時は自決を覚悟したが、幸村は家康にとどめを刺すには到らず戦死。49歳。

幸村の長男、大助幸昌(母は、大谷吉継の娘)も豊臣家と運命をともにして死亡。幸村の娘の阿梅(母は、高梨内記の娘)が、戦後、伊達家の家臣、片倉重綱に嫁いで家名再興につとめた、と伝えられる。

なお、幸村の兄、信之は信濃上田から松代に転封となり、松代藩10万石の祖となり、徳川幕府の策動を免れ、幕末まで家を保った。