■ 佐久間盛政 ■


2001/10/24 改訂
(ご協力、淡麻呂さま)

(1554〜1583)

天文23年(1554)、久右衛門盛次を父に、柴田勝家の妹を母として生まれる。織田信長に仕えて、加賀一向一揆をおさめ、加賀守護となった。

天正8年(1580)、伯父信盛が罪を得てともに引退したが許され、尾山城(金沢)城主となった。天正10年(1582)石動山一向一揆には前田利家を援け、これをおさめた。

盛政は信長の部将として数々の戦功を上げ、その武名高かったが、天正11年(1583)、柴田勝家が豊臣秀吉と戦うや、盛政は勝家を援け、先鋒となり、1万5千の兵で大岩山の砦を急襲。中川清秀を討ち、次いで高山右近の守る岩崎山を攻め、これを落とした。

しかし、盛政は帰陣をうながす勝家の命に従わず、余呉に兵を留めたため、大垣城の秀吉は急遽、兵を戻し、狼狽する盛政の軍を賤ヶ岳に破った。盛政は傷つき、越前敦賀の庄まで逃げたが、その年の5月、京六条河原で首をはねられた。30歳。

盛政の弟、安政は兄とともに柴田勝家に属し、賤ヶ岳に戦ったが敗れ、のち関東に走って北条氏政に仕えた。小田原落城ののち、関ヶ原、大坂の陣を経て、信濃飯山城主となった。