■ 酒井忠次 ■


(1527〜1596)

徳川創業の功臣で四天王の一人。大永7年(1527)、忠親の子として三河に生まれる。酒井家は代々松平氏(のちの徳川氏)に仕え、忠次もはじめ家康の父松平広忠に、死後は家康に仕える。

当時家康は駿河で今川家の人質の身であった。弘治2年(1556)には三河加茂郡宇幾賀井で信長の軍と戦い、永禄3年(1560)5月、今川義元が桶狭間に戦死し、家康は三河岡崎に帰った。

永禄5年(1562)、家康は今川氏と絶縁し、織田氏と結んだが、その裏には忠次の強力な働きがあったといわれる。

翌6年(1563)、忠次は家康に従い三河の一向一揆平定に活躍、翌7年(1564)、今川氏の拠点、吉田城攻めで先鋒をつとめ、功により吉田城主となり、さらに姉川の合戦、長篠の戦いなどで戦功をあげた。

天正16年(1588)、眼をわずらい、吉田2万石を子家次に与えたのち、自らは出家し、法号を一智、京都桜井の館に隠居した。慶長元年(1596)、桜井館にて死去。70歳。

忠次の子、家次は永禄3年(1560)、三河に生まれたが、15歳のとき長篠合戦に初陣し、軍功があった。関ヶ原、大阪の陣に歴戦しのち、越後高田10万石の領主となった。