■ 斎藤道三 ■


(1494〜1556)

道三の出生に関しては、正確な史実は全くない、と言ってよいだろう。

道三の一代記として伝えられている 『美濃国諸旧記』には、おかしい点が多いと指摘され、また、道三は、その父と二代によるもの、という説もあるので、正確な史料を元にした説明はできない。

『美濃国諸旧記』によると、明応3年(1494)、山城国、乙訓郡西ノ岡(現在の京都府長岡京市)辺りの松波基宗の子として誕生。幼名、峯丸。美貌で怜悧であったという。

父、松波基宗はもと北面の武士(天皇の御所を警護する武士)で、左近将監という相当な家柄でありながら、帰農。朝廷とともに将軍足利家の権威が落ち、経済困難によって給金が途絶えたとも想像できる。

基宗は、11歳の峯丸(道三)を京都日蓮宗の妙覚寺にあずけ、峯丸はここで法蓮坊と名付けられた。勉学の末、「学は顕密の奥旨を極め、弁舌は富婁那(釈迦の弟子で、弁舌の上手)にもおとらず、内外(内典と外典、仏書と儒書)をよく悟り、頗る名僧の端」となった。

ちなみに日蓮宗の中でも妙覚寺は不受不施派(法華を信じないものの施しを受けず、法華を信じないものには施しを与えない)という排他的な宗派であり、のちの道三の人生観に通じる面は多い。

法蓮坊(道三)の弟弟子である南陽坊が、美濃の守護土岐家に仕える豪族、長井豊後守利隆の弟だという。この南陽坊は修行ののち美濃に帰り、鷲林山常在寺の住職となった。

法蓮坊はこのころ還俗し、商人、奈良屋又兵衛の娘をめとり、山崎屋庄五郎(庄九郎ともいう)と名を改めて、油屋を開業。荏胡麻油の専売権をにぎる大山崎八幡宮からその許可を得て、京とその周辺において行商し、たちまち財をなした。

やがて美濃にも販路を伸ばし、日運となった南陽坊に再会。常在寺を宿所とするうち、日運の兄、長井利隆に目どおりが適い、土岐家家老となった長井家にも出入り。当主、長井長張(長弘)にその才を評価され、松波庄五郎として、川手城の土岐政房に推挙された。

ところが、政房が庄五郎(道三)を召抱えようとしたところ、嫡男、盛頼が反対したため仕官は適わず(このとき、盛頼は庄五郎を奸臣と見抜いた、などと言われている)、庄五郎は、大永3年(1523)、再び長井長張の紹介で、鷺山城に住む土岐頼芸(盛頼の弟)に仕官。

また、当時、土岐家の政房と頼芸兄弟が不仲であり、庄五郎はこれに目をつけ、金にものを言わせて長井利隆を動かし、はじめから御しやすい頼芸を選んで仕えた、とも言われる。この話が本当でも、頼芸を篭絡せんがため、と言うよりは、利隆と頼芸の連絡役をつとめて、他国から来た自己の勢力を確保しようとした、と考えるのが妥当ではなかろうか。

また、この説は、頼芸が京風の文化を好み、遊芸好きであったため、諸事に秀でた庄五郎をよく用いた、とされる話や、のちに頼芸が兄を破って守護職についた事に所以するように思われる。何にせよ、油屋から身を起こしたとされる庄五郎に、当時、相当な財があったことは事実なのであろう。

数年ののち、長井家家老、西村三郎右衛門正元が死去。この後継ぎがいなかったため、頼芸と長井長張はこの西村家の名跡を庄五郎に継がせ、大永5年(1525)庄五郎は西村勘九郎と名を改め、はじめて武士として土地(知行)をもらい、翌6年(1526)12月、頼芸の側室を自分の側室として貰い受ける。この前後、軽海西城を与えられたようでもある。

翌7年(1527)6月にこの側室から生まれた豊太丸が、のちの義竜であり、ここから義竜が土岐頼芸の子である、という説が出て来る。

主の側室を貰い受けた、というこの話によって、よく道三の異例の出世を謳われることが多いが、それはどうであろうか。

真の出世であるならば、主や重臣の血縁者(あるいは養子や養女)を妻にするものであり、勘九郎(道三)は、未だ主の頼芸一人に個人的に認められたにすぎなかった……つまり、未だ他国者としての基盤の危うさを物語る背景であるようにも受け取れる。これは、武人としての功績が、この時にはまだ無かったからかもしれない。

同年8月、勘九郎は長井利隆と計り、頼芸を擁して、5千の手勢で川手城の盛頼を襲った。盛頼は防戦したがかなわず、わずかの兵とともに越前の朝倉氏を頼って落ちた。この盛頼は”政頼”とあらわされ、これが政房と盛頼の父子を表すのか、どちらかだけを示すのかはわからない。

頼芸は美濃守護職につき、勘九郎はこの功により加増。本巣郡、祐向山城主となる。

同時に、このころから勘九郎は、守護代、長井長張(利安とも)と対立するようになり、享禄3年(1530)、1月13日、刺客を使って長張とその室を殺害。長井家を横領し、自ら長井新九郎正利(利政とも)と名乗った。ここに新九郎(道三)は、守護代の地位と、要害の地、稲葉山城を手に入れた。

ちなみに、道三を父子の二代とする説には、父を長井新左衛門尉としており、長井利隆の死後、道三の地位が揺るぎないものとなった事から見ても、ここに言う利隆、長張の長井家と関わりがあるように思われる。

長井一族からは報復攻撃を仕掛けられたが、新九郎は土岐頼芸の居城、大桑城に逃れ、日運と江州守護、佐々木義秀が仲介して収まり、天文2年(1533)、東美濃の名家、明智駿河守光継の娘を娶る(2月1日、輿入れ)。一説に、この女性の生んだ娘が、のちに信長に嫁いだ帰蝶であるという。

天文7年(1538)9月、守護代、斎藤利良が死に、子が無かったため、新九郎は又しても名家の跡を継ぎ、ここに初めて、斎藤氏を名乗る。右近太夫(左近太夫とも)秀竜、または利政。(他に、藤原規秀、斎藤山城守、という署名もある)

翌年(1539)稲葉山城の備えと、山麓の居館の大改築を施す。

稲葉山城は、もともと要害の地であったが、城山としては高すぎ、鎌倉時代の二階堂氏、守護代の長井氏は、戦闘に少数の守備と兵糧を置いたものの、平時には山麓で生活していた。ここを本格的に普請したのは道三が最初であったと思われる。

天文10年(1541)、頼芸の嫡子、太郎法師、重臣の村上芸重などが、権勢を奮う道三に反抗して鵜飼山城にこもったが、尾張の織田信秀(信長の父)、近江の佐々木定頼、越前の朝倉義景などが美濃に入って仲介し、和睦。利政(道三)は常在寺で入道して、はじめて道三と号した。

天文11年(1542)8月、道三は突如兵を起こし、大桑城の主、土岐頼芸を攻める。頼芸は織田信秀を頼って落ちた。これにより、はじめて美濃国主の地位につく。道三は頼芸を追放処分にしている。”美濃の蝮”の異名をもって近隣諸国に恐れられるようになったのは、このころからであるように思われる。

天文13年(1544)、頼芸は朝倉氏の加勢を得て美濃の道三を攻め返すが、逆に道三に破られ撤退。このとき和睦し、土岐盛頼を川手城に、頼芸を大桑城に帰した、とも言われる。

天文16年(1547)、道三は再び、盛頼、頼芸の二人を攻め、盛頼は自刃、頼芸は越前に逃げ延びた。

天文17年(1548)、家督を嫡子、義竜に譲る。これは、下克上による国政に人心が離れることを恐れ、土岐家の血を継ぐ義竜に一度は国政を返したものの、あとになってこれを廃嫡し、実子の孫四郎か玄蕃を国主にするつもりだった、と言われる。

同年(翌18年とも)、織田信秀と和を結び、娘帰蝶を信秀嫡子、信長に嫁す。

天文22年(1553)、信長と富田、正徳寺(聖徳寺)で会見(『信長公記』には天文18年)。この時、道三は近隣の民家に隠れ、会見に赴く信長を見た、と言う。

信長は、鉄砲隊500人、長槍500人を引き連れながらも、自身の髪は茶筅まげ、荒縄の帯を巻き、腰から瓢箪を多く下げ、革の半袴。これを見た道三が平服のまま寺に戻り待っていると、入室してきた信長は正装に着替え直していた、と言う。これ以後、道三は信長を見込み、何かと援助した。

このあと、道三は嫡子義竜を除き、実子に美濃守護を継がせるべく働いたため、この気配を察知した義竜は先手を打ち、弘治元年(1555)、道三の実子、孫四郎と玄蕃を稲葉山城に呼び寄せて殺害。

鷹狩に出掛けていた道三は、急ぎ鷲山に戻り兵を集めたが集まらず、わずか2000〜3000人ほどで、一方、稲葉山城に拠り、土岐家正嫡を称する義竜の1万数千と対峙せざるを得ず、小競り合いのたびに、軍勢を減らしていった。

弘治2年(1556)4月19日、二人の子に遺言を与えて京都妙覚寺に送ると、自身は4月20日、義竜と長良川にて合戦。

敗戦した道三を、長井忠左衛門道勝が見つけ組み伏せたが、旧主であるがゆえに長井は道三を逃し、かわって、小牧源太道家が討ち取った。墓は、岐阜市長良福光に首塚があるのみである。

一方、道三の遺言状を携えた二人の子は、無事仏門に入り、一人はのち、信長の家臣となった斎藤新五郎だと言う。道三は手紙の中で「美濃を織田上総介(信長)に任せる」と言っている。