■ 龍造寺隆信 ■



1529〜1584

龍造寺氏の出自には諸説あるが、一説には、元は藤原氏の出と言い、藤原秀郷の後裔と称する藤原季清が、久寿元年(1154)に鎮西使として佐賀の竜造寺庄に居館を置き、やはり藤原秀郷の後裔と称す秀家(季家とも?)の代になって、肥後国小津東郷龍造寺(現佐賀市)の地頭職に任ぜられ、龍(竜)造寺を姓としたのが起こり、という。

この流れは、のちに筑前の少弐氏に属したが、明応のころから佐賀の本家と水ヶ江に移った水ヶ江龍造寺とに分かれた。隆信は水ヶ江龍造寺周家の子として享禄2年(1529)、佐賀に生まれる。

7歳で出家。仏門にありながらも、水ヶ江龍造寺家の当主・家兼の死後、天文16年(1547)に還俗して本家の家督を継ぎ、佐賀城主となって、胤信と称した。
天文17年(1548)に、今度は本家筋の村中龍造寺家の当主・胤栄(たねみつ)が急死すると、その未亡人と結婚して本家を相続した。

既に主筋に当たる少弐冬尚を攻めて追い払った龍造寺本家(村中)の後を担いながらも、基盤とすべき龍造寺内部の勢力を従え切れなかった隆信は、対外的に周防の大内義隆と結び、その後援を受ける事で急場を凌いだ。
大内義隆の一字を取って隆信と改名し、また、義隆の働きかけで山城守に任ぜられた。

が、天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により死去すると、一部の重臣たちが叛旗をひるがえしたので、一時追放されて筑後柳川にのがれた。二年後に佐賀城をとりかえし、復帰する。

その頃、豊後の大友宗麟が肥前国の守護職となり、肥前に進出するにあたって、大友氏と龍造寺氏の対立が決定的となり、隆信は松浦、後藤などとも戦い、大友氏から二度にわたって佐賀城を攻められた。

一度目は毛利氏の援軍で退けたが、二度目の永禄12年(1569)には、5万の大友宗麟に攻められ、佐賀城に籠城した。
この時は、重臣・鍋島直茂の活躍でこれを撃退。決着がつかず和睦したものの、これで声望を高め、以後、急速に勢力を拡大する。

その後も四方に勢力を拡大し、有馬氏らと戦い、肥前を中心に筑前・筑後・肥後北半・豊前の一部と五ヶ国にまたがる版図を獲得。天正元年(1573)には肥前を統一しこれを支配した。
九州では大友・島津両氏とともに鼎立時代を迎え、この頃が隆信の絶頂期であった。

天正8年、子政家に佐賀城を譲り、須古城に移った。

だが、天文12年(1584)、島原の有馬氏を攻め、高来郡沖田で有馬義統とこれを支援した島津家久の軍と交戦し(沖田畷の戦い)、大軍を擁したにもかかわらず、用兵を誤り、島津勢の鉄砲隊にあい敗死。56歳。

龍造寺氏は、急激に膨張したため、家臣団の結束が弱かったとも言われ、その後は家老の鍋島氏が台頭することになる。