■ 六角義賢 ■



(1521〜1598)

六角氏は本姓は佐々木氏で、佐々木氏は宇多源氏の出とも言い、大彦命の後裔とも言う。同族に真野・大原・高島などの氏がある。

佐々木泰綱のとき、邸が京都六角にあったので六角姓を名乗り、泰綱の弟・氏信は同時期に京都京極に邸があったので、京極氏を名乗りその祖となった。

大永元年(1521)、義賢は定頼の子として生まれ、はじめ左京大夫と称し、剃髪したのちは承禎と号した。
所領は近江で、観音寺城に居城し、三好長慶や浅井氏と戦闘している。

そうして一度は13代将軍の義輝を京に連れ戻させた事もあったが、15代将軍の義昭が三好党からのがれて義賢を頼ったときは、家来との内乱や浅井氏との抗争があり、既に力が衰えていたとも言われ、義昭を助けることができなかった。

そこで新興勢力の織田信長が、義昭を利用して京に入ろうとしたが、信長の入京を恐れた三好党が、義賢を動かして信長に抗させたとも言われ、義賢は信長への追従を拒んで抗戦した。
が、破れて、永禄11年(1568)、観音寺城を囲まれ、和睦を結び、開城して甲賀の山中に篭った。

信長が自身で擁した足利義昭と不和となったのを機に、浅井・三好と組んだと言われ、天正元年(1573)、信長が浅井氏と戦った折、義賢は信長と戦ったが敗戦。
この時の戦いで、石部城に入った事と、信長の部将・佐久間信盛の名が見える。

義賢は又しても甲賀山にのがれ、その後に織田信長に下ったとも言う。
慶長3年(1598)3月死去。78歳。