■ 利休 ■


(1522〜1591)

堺は宣教師ルイス・フロイスが『日本史』に「ヴェニスのように大きく富裕で、市民は気位高く傲慢」と言うが、信長が2万貫を要求した時には、計算づくだろうが合意している。

利休は、こうした堺の魚問屋の出身で、津田宗及、今井宗久と同じく、町の行政に口出しできる納屋衆の一員で、茶人。茶道は武野紹鴎に師事しており、天正10年(1582)の本能寺の変の頃は、秀吉を「筑州」と呼び捨てにし、秀吉は「宗易公」と尊称していた。

同年、山崎合戦で明智光秀に勝った秀吉が、天王山に仮の城を築いて滞在した時、利休は気まぐれに立ち寄る書状を秀吉に出し、宝積寺の境内に、二畳の狭さで躪口から潜る形式の「待庵」という、現存の茶室を好みにより建てている。
翌11年(1583)、三千石の茶頭として、秀吉の大坂城に常駐。

同14年(1586)、九州征伐に至る過程で、大友宗麟が島津氏との抗争への援助を求めると、秀吉の弟・秀長は、「内々の事は利休に、公の事は自分に」と知らせている事から、利休がかなり深く奥まった面で政治に関与する、何らか実力を持っていた様子がわかる。

さらに「鷹の塩漬けなどより銀子を」と、堂々と賄賂を要求したり、茶器の売買で暴利を得るなどもあったというが、利休らしい嫌味とも解釈できるらしい。

その一方、大坂城では秀吉が黄金の茶室を作るが、利休はその天守閣の傍に山里丸という、小さな侘び茶室を造営するなど、世俗と聖の両極端な面も見せ、仏道を世事の手段にする嘆きを綴った慈円(新古今和歌集)の歌を口ずさんでいた、と弟子の山上宗二は書いている。

関白になった秀吉は「宗易」「利休」と呼び捨て、利休は「内府様」「秀吉公」「関白様」と呼ぶようになった。
秀吉好みの盛大な花見・北野大茶会を催す傍ら、侘びを追求し、利休の屋敷の庭に咲き群れる朝顔を見に秀吉が訪れると、庭には朝顔が無く、茶室に一輪だけ活けてあった、という逸話も有名だ。

利休の作と言われる『南坊録』には、「桜だけでなく、山里の雪の間の草も見よ」という、やはり『新古今和歌集』の藤原家隆の歌があるが、これは偽作とも言われる。

天正19年(1591)、秀吉から京追放の命を受け、堺に流された利休は切腹した。
利休には茶道の多くの弟子がおり、前田利家も秀吉の母や正室・北政所を動かして助命運動をしたが、利休は誇り高くそれらを撥ね付けており、切腹の理由も言わなかった。

秀吉の利休への怒りの理由もわからない。一説に、天正17年(1589)、私財を投じて建築した大徳寺の山門楼閣に、雪駄を吐いた杖をもつ利休の木像を安置した事とも言う。

利休は茶道に独特の工夫を凝らして、茶器や草庵茶室などを創出し、生前に完成した「わび茶」は、千家が一時断絶したものの係累が伝え、武者小路、表千家、裏千家がある。