■ 蓮如 ■



(1415〜1499)

蓮如の率いる宗教集団は、一般には一向宗として知られ、、宗派としては真宗を母体にするが、真宗には本願寺派・仏光寺派・専修寺派などがあり、その中で本願寺派の門徒が起こした支配層に対する戦いを「一向一揆」と歴史的には位置づけている。

鎌倉時代、既成仏教では救わない階層に目を向けた法然や親鸞など、数々の鎌倉仏教が起こり、浄土真宗じたい鎌倉初頭には、親鸞が教えを開始し、民家を「道場」として、女性までも対象に、救いを求める農民を主とした、多くの貧民や庶民など信徒の名が名帳に数多くあらわれて来る。
中でも北陸への進出と浸透力は速かった。

と言っても内容は生易しい物ではなく、死後の加護(教え)を得るための、強烈で命懸けの信仰で、実は信者はあまり増えず、むしろ衰退した。
それを爆発的な大多数に受け入れられ、戦闘にまで駆り立てた土壌は、初期より何代も下った蓮如によった。

蓮如は応永22年(1415)に生まれた。
前半生は苦労の連続で、母は父の召使と身分が低かったので、決まった正妻が入って来ると、まだ6歳の蓮如を残して家を去った。
が、蓮如は父の存如とは、ともに各地を廻り、ともに布教に努めた。

長じて5回も結婚し、27人もの子供が出来た。
これは子女を各地の各寺院に配置し、勢力拡大をはかったとも、母への同情から、女性を見捨てられなかったためとも見れる。

長禄元年(1457年)、父・存如が没し、異母弟を擁立する者もあったが、叔父の働きにより、42歳で蓮如が本願寺・第8世の座に就いたが、その後も他宗の排撃や、他派に厄介になる惨めな状態は続いた。

それゆえか彼の考えは合理的で、「村で信者にしたいのは、坊主・長(おとな)・年寄、この三者を掴めばムラごと頂きだ」と言い切っている。
長(おとな)と年寄は有力名主のことを指し、大きな土地所有者だが農民である。

ムラ、すなわち惣村の芽生えは南北朝騒乱の終わり頃と言われ、荘園が崩れ、訴訟など賄賂を要する場合も、ムラ単位で行なうようになっていた。
つまりムラで必要な経費を寄り集まって払い、その上さらに年貢も払う、という矛盾が出て来ていた。

惣村の思想的な支柱には神社などが相当していたようだが、蓮如の言うのは、そこに念仏を広める場合、有力者をつてに庶民に広げる、という事だ。

最初は近江の琵琶湖、特に湖南の堅田に有力な拠点を持った。
ここに堅田衆という水上交通の勢力がいて、古来から商業と運送業をしていた。彼らも救われない庶民に属すから、教義的には真宗に相応しいが、それより蓮如はその旺盛な経済力に目をつけた。
堅田の門徒で重要な働きをしたのは、紺屋法住という染物の商工業者だった。

蓮如の特徴は、自分を信者の「おかげ」で成り立つ、持たれ、生活させて貰っている、という立場を貫き、末の門徒に至るまで「同朋・同行」と言って、説法する者と信者を対等・平等と見なし、「平座」という、隔てる台を取り払って目線を上げさせない遣り方を取り、民衆との連帯感を強化した。

説法に飽きた者には、笑い話や能・狂言の真似事をして眠りを覚まし、着る物も地味にした。
説法する者にも、このような所を指導して、末端の階級にまで浸透したという。
また「御文」という、今の通信教育を行なった。

蓮如たちに排他的な旧仏教界の迫害や軋轢もあり、文明3年(1471)、蓮如は北陸を目指した。56歳。石川県と福井県の堺の吉崎に道場を作り、門徒の参詣で大賑わいした。
御堂には瞬く間に支坊が並んでいき、制限を加えるほどの群衆で満ちた。

同6年(1474)、加賀の富樫氏の内紛をきっかけに、門徒たちはいっせいに立ち上がり、戦闘で一揆側に2千人の死者が出た。
最初は内紛の片方で、守護でもある富樫政親に協力していたが、やがて政親自身に危険視され、門徒側も暴発していったのだ。

この事件で蓮如は一躍、一向一揆の開始者のごとく、歴史に名を残すほど有名になったが、蓮如自身は守護・地頭に逆らう事も、年貢の滞納にも戒めを述べており、さらに「他の宗教の悪口」や「自分の宗教の宣伝」まで禁じ、政治も権力も尊重して、宗教は心の中だけでやれ、と命じている。

ちなみに一揆とは、簡単に言えば、従来既存の血脈・地盤・主従などを超えた誓約・連合を指し、公的に補いきれない部分を補う、社会の安定に必要な仕組みで、特定の宗派でも農民が筵に字を書いて起こす暴挙を指す言葉でもなかったが、蓮如が行なった平等の行動が、民衆のタガを外して暴徒化させたとも、他に扇動者がいたとも見られている。

一度エスカレートした暴徒は蓮如の手を離れ、長享2年(1488)、守護の富樫政規を高尾城に囲んで倒し、いわゆる加賀の「門徒持ち(百姓持ち)の国」が出現。
本願寺と蓮如はこの地を離れ、大坂の石山御坊に移って、北陸から中国にかける大教版図へと発展。

蓮如は長く生き、明応8年(1499)、84歳で没したが、この84歳になってから34歳の妻を迎えたという。

蓮如の死後、本願寺の寺院は、城さながらに戦闘要塞と化し、戦国時代の終わり頃になると、名立たる戦国武将の殆どが多かれ少なかれ一向一揆と戦った。特に徳川家康は家臣からも一揆に参加する者が出て、苦境に陥った。
が、ゲリラ戦を展開する手法ゆえに、織田信長や前田利家などにより、門徒たちへの成敗も苛烈さを増し、惨たらしい戦法・殺傷がエスカレートして、名の如く殉教者が続出した。