■ 大内義隆 ■


(1507〜1551)

大内氏はもと多々良氏を名乗り、百済国の琳聖太子の後裔という。南北朝時代、弘世の代に周防大内村(多々良)から、山口に移り、周防、長門、石見三国の守護となった。その子、義弘は足利氏に従い、明徳の乱鎮圧に功績があり、豊前、筑前、和泉など7ヶ国の守護となって、中国、九州に勢力を築いた。

応仁の乱で、政弘が西軍として参加。大内氏の名が広まり、公卿の一条兼良、連歌師の宗祇らを山口に招いて、独特の京風文化を確立した。その子、義興の代に隆盛を極め、将軍、義稙を擁し、管領代として10年、幕政を掌握した。

義隆は、永正4年(1507)、義興の嫡子として山口に誕生。父とともに出雲の新興大名、尼子氏と長年にわたり抗争を繰り返し、その過程において、毛利元就も服属させる。その間、公卿、万里小路秀房の娘と結婚。亨禄元年(1528)、父の死後その遺領を継ぐ。

天文元年(1532)、敵対した肥前の少弐資元、豊後の大友義鑑を攻めるため、筑前に出陣。この戦の一時和平を成立させる傍ら、朝廷に運動を持ち掛け、大宰大弐に任官。周防、長門、安芸、石見、備後、筑前、豊前七カ国の守護として、西国一の大名となった。同3年(1534)、筑後に大生寺城を攻め星野親忠を討つ。さらに肥前蓮池城に進み、少弐、大友氏を降し、九州支配に成功した。

天文9年からは尼子氏攻撃を強め、属城を攻略。同11年には、尼子経久の死を契機に、本拠、富田月山城を直接攻撃するが、はたせず撤退。

その後、政治を部下にゆだね、自らは学芸を愛し、経典「一切経」を朝鮮に求め、山口版、大内版ともいわれる書物を出版した。京の文化を取り入れ、明や朝鮮、さらには西洋の文化導入に力を入れ、山口は文化の都として発展した。

しかしその反面文弱で遊芸におぼれ、そのために部下の統制が乱れ、重臣の陶晴賢の諫言も聞き入れず、むしろ晴賢の所領を取り上げようとしたことから晴賢は挙兵。義隆は山口を逃れたが、追撃され、天文20年(1551)、長門深川大寧寺で自刃。45歳。 これをもって、名門、大内氏の命脈は尽きた。

大内氏は、対朝鮮、対明貿易を独占したり、ザビエルとの会見、キリスト教の布教の許可など、他の戦国大名には見られない対外政策を成し遂げた点は、注目に値する。