■ 大友宗麟 ■


(1530〜1587)

大友氏は、鎌倉時代初期、能直が豊後国守護職に任命されたのを機に、南北朝時代は北朝に属し、以後、豊後、筑後に勢力を伸ばして一円の守護大名となり、宗麟の祖父、義長の代には戦国大名として活躍。

宗麟は、亨禄3年(1530)、大友義鑑の嫡子として豊後府内城に誕生。元服してより義鎮、のち宗麟。

天文19年(1550)、2月、父義鑑がお家騒動「大友二階崩れ」の変で、義鎮擁立派の家臣の裏切りにあい斬死。21歳の義鎮は、事変の首謀者である田口、津久見を討ち、家を継いだ。

翌20年(1551)、長年争っていた大内義隆が、その家臣、陶晴賢のために自害し、この陶氏の要請で、弟、晴英が大内氏を継いだため、義鎮は大内氏旧領の豊前、筑前を取り込み、制圧する事に成功。早くから鉄砲の価値を評価していた義鎮は、その製造に取り掛かっていたと言われ、その効果も貢献したようである。

この年、イエズス会のザビエルを府内城(現、大分市)に招き、布教を許可。ただ、その目的は南蛮貿易にあり、大砲、火薬の他、象や孔雀といった当時珍しい動物なども輸入し、異国情緒豊かな城下町を形成していく事となる。

翌21年(1552)、毛利元就が旧大内領回復を目指して豊前に進出、門司城を攻め、大内義隆死後の北九州は両軍争奪の地となった。しかし大友氏の勢力は、着々と北九州6ヶ国におよび、さらに日向、伊予にも出兵。

永禄2年(1559)、将軍、足利義輝から、豊前、筑前守護に正式に任命され、同5年(1562)、宗麟と号す。

一方で、陶氏を厳島で破って勢いを得た毛利氏との抗争はなおも続いていたが、同13年(1570)、博多での決戦により、ようやく毛利氏が九州から撤退。豊後、豊前、筑後、筑前、肥後、肥前、日向、伊予半国を領する、強大な戦国大名、大友氏最盛期が出現。また、海外貿易の拠点、博多を支配し、朝鮮貿易をおこなった。

元亀3年(1572)、島津義久に敗れた日向の伊東義祐が身を寄せ、宗麟は、これを大義名分として、天正6年(1578)、島津氏との決戦に及ぶが、45,000の大軍を率いて日向路を南下したものの、耳川の合戦にて、25,000の島津軍に大敗を喫した。宗麟はこの年、キリシタンに帰依(洗礼名をフランシスコ)。日向にキリシタンの理想国を建設する計画に没頭し、戦場のはるか後方で礼拝に耽っていたために、大友軍の将兵が奮わなかったと言われる。

宗麟は、若年ころ乱暴で周囲を困らせたが、洗礼を受けてより人格が変わったとも言われている。同10年(1582)には、有馬晴信・大村純忠とともに、「少年遣欧施設」を、ローマ教皇のもとに送った。ただし、宗麟自身は禅宗に凝っていて、ポルトガル貿易に力を入れた所からも、貿易が主目的であったと見られる。

ちなみに、宗麟は上杉謙信と同い年であり、国を追われた敗者への大義の戦を起こす点、理想や宗教に没頭するあまり、従う者の中から手柄への不満が出る点など、酷似している面もあるが、結果が負けと出たのは、謙信よりさらに極端であったためであろうか。

これを契機に、衰運の一途を辿った大友氏は、元々家臣団の結束の弱さもあり、離反者が続出。配下の竜造寺氏は独立。この弱みに乗じた島津氏が、天正14年(1586)に北上。宗麟居城、臼杵丹生島城に到達した。

宗麟は、輸入した大砲「国くづし」によって、辛うじて島津軍を追い払ったものの、以後は衰運で、島津氏の侵入にあい、本国豊後を奪われたため、ついに上洛して、豊臣秀吉に援軍を求め、これが秀吉の島津征伐の原因になった。

秀吉の九州遠征のおかげで、嫡子、義統に豊後一国を保証され、宗麟自身も、秀吉から隠居領として日向を与えられはしたものの、これを辞退したまま、翌15年(1587)、海部郡津久見に没。58歳。

嫡子、義統は、朝鮮の役の不始末により改易。関ヶ原で再起をはかり西軍に属したが、負けを喫したため、ここに大名、大友氏は消滅した。