■ 大谷吉継 ■


(1559〜1600)

大友宗麟の家臣、盛治の子。永禄2年(1559)、豊後に生まれる。父、森治が大友氏を離れ、流浪ののち、石田三成とともに秀吉に仕え、敦賀5万石の城主。のち刑部少輔。

天正15年(1587)、九州征伐。同18年(1590)、小田原征伐。軍功により、文禄・慶長の役にも参加。名将の誉れ高い武将であった。

秀吉の死後、家康に接近し、慶長5年(1600)、上杉征伐に加わり美濃垂井まで達したが、佐和山城主、石田三成が上杉と同調して密議を持つを知り、再三不利を説いたものの、三成の決意を動かせず、死を覚悟の上、三成に荷担。

関ヶ原では、重病(ハンセン氏病と言われている)のため眼を患い、駕籠に乗って兵の指揮に当たったが、松尾山の小早川軍の裏切りにより背後を突かれ、さらに側面攻撃されたため死期を悟り、家臣、湯浅五介の介錯によって自害。42歳。