■ 太田道灌 ■


(1432〜1486)

永亨4年(1432)、太田備中守資清の子として誕生。幼名鶴千代。父資清は扇谷上杉氏の家宰であった。

9歳で鎌倉建長寺に預けられ勉学したため、11歳で文章に通じていたという。15歳で元服。上杉持朝から一字をもらい、源六郎持資と称し、のち資長と改名。

15歳のころ、おのれの才をひけらかす資長を、父資清が、「障子は、真っ直ぐであるから立つのであって、曲がっていては立たない」と戒めると、資長は屏風を指し、「これは曲がっているから立ち、真っ直ぐでは立ちませぬ」と反論したという。

また、父資清が「驕者不久」(驕る者、久しからず)の書を見せて説教しようとした所、資長はその後に「不驕又不久」(驕らざるも、また久しからず)と書き加え、資清を激怒させた、という。

当時、鎌倉公方の足利持氏が将軍に成り代わろうとし、その補佐役である関東管領、山内上杉憲実の諫言を嫌った持氏は、憲実を討とうとして、逆に足利義教の援軍を得た憲実に攻められ、鎌倉で自殺。宝徳元年(1449)、持氏の子の成氏が鎌倉に入って関東公方になり、憲実の子の憲忠を謀殺。つづいて成氏は、幕府、上杉、今川などの連合軍に攻められて、鎌倉から古河に移り、古河公方になった。

扇谷上杉氏の家宰、太田道灌は、古河公方との対立上、江戸城を築いた。康正2年(1456)に着工。翌長禄元年(1457)4月ほぼ完成し入城。現在の江戸城の内本丸の一帯で、自然の地形を利用した中世的な城であった。道灌築城の前は、おそらく江戸氏の館跡であったらしい。

三郭あり、大手は現在の北拮橋あたりらしい。現在とは逆であるが、当時は日比谷、丸の内方面は海であり、入り江に沿った建築だったろうと想像できる。また、富士見櫓に、静勝軒と称した三層の建物があり、最上部は高欄造りであったという。また、道灌自身も静勝軒と号した。

築城のとき、「夢のお告げ」により、千代田、宝田、祝の里を選んだとか、鎌倉や江ノ島に参拝した帰りの船が、ちょうど千代田に差し掛かった時、コノシロ(魚)が船内に飛び込んだ、などと言われる。

寛正5年(1464)、道灌が上洛し、将軍、足利義政に拝謁したとき、後土御門天皇の下問に、前述の江戸城、静勝軒からの眺めを歌っている。

「わがいほは松原つづき海近く富士の高嶺をのきばにぞみる」

太田道灌にはエピソードが多い。真偽のほどの怪しいものも少なくないが、歌で知られるものが多いのが特徴である。

鷹狩の際、雨に降られた資長が農家で蓑を借りたいと呼ばわった所、娘が何もいわずに一枝の山吹の花を差し出した。資長は不機嫌になり、帰城して近侍の者に話すと、中村重頼が、それは蓑がない、という意味だと説明し、『後拾遺集』の兼明親王の次の歌をしめした。

「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞかなしき」

この逸話にちなんで、東京は早稲田の面影橋の近くに「伝説・山吹の里」の碑が建っている。

こんな話もある。罪を犯した7人の家来に、資長が死罪を申し渡した所、全員が建物に立て篭もり反抗した。これを6百人近くで囲むと、資長は一人の侍を選び、「一人だけ助命する者がいるから、その者を討ってはならぬぞ」と大声で言わせた後、その侍に突入させた。中の7人は、それぞれ自分だけは助かるかもしれないと思い込んだため、たちまち全員が侍に斬られた。

「世の中に独り止まるものならばもし我かはと身をや頼まん」

今度は、上杉定正が武田道信を攻めたときの逸話である。夜道を山路に進むと、山上から弓矢と投石で攻撃された。定正は海沿いの道を選ぶこととし、物見を出した所、 暗闇で潮の満ち引きを判断出来ずに帰ってきた。そこで資長が偵察に立ち、すぐに引き返して「潮は引いている」と返答した。資長は途中までしか行かなかったのだが、千鳥の声が遠くに聞こえたので潮の様子がわかった、という。

「遠くなり近くなるみの浜千鳥なく音に潮の満ち干をぞ知る」

さらに利根川を渡った時の逸話。浅瀬を渡りたかったが、やはり夜闇で様子がわからない。資長は「波音のする所を通れ」と兵に命じた。

「そこひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波は立て」

文明5年(1473)、山内上杉顕定の執事、長尾景信が没し、顕定が、景信の弟、忠景に跡を継がせたため、景信の嫡子、景春は古河公方と組んで、文明8年(1476)6月、鉢形城にて挙兵。翌9年(1477)1月、武蔵五十子で顕定を破ったため、今川家の内紛調停のために駿河に出向いていた道灌は、道中を引き返して、溝呂木、小磯の諸城を落とし、4月10日、勝原で景春軍を撃破。

さらに景春に荷担した土豪、豊島泰経を雑司が谷、巣鴨で破ったが、豊島氏が再び反抗したため、平塚城を落とし、江古田・沼袋の乱でさらに打撃を与え、練馬城なども攻撃。最後に石神井城に篭った豊島氏から、巧みに内応者を得て、城内に乱入。ついに豊島氏を滅亡に追い込んだ。

このとき、豊島泰経は愛馬ごと、城の北、三宝寺池に入水し、泰経の娘、照子も入水自殺した、と伝説に残る。

道灌は歌道だけでなく、広く諸学に知識が深く、万里集九という僧が残した記録にも、文明6年(1474)6月17日、江戸城内で「武州江戸歌合せ」を開き、道灌が文人や芸術家などのサロンを持っていた様子が記されている。

文明10年(1478)、足利成氏と上杉顕定は、ようやく和睦したが、文明12年(1480)ごろになっても、道灌と景春の戦いは止まず、また、扇谷、山内のいわゆる両上杉の仲も険しくなってきた。

文明18年7月26日、道灌は、主君、扇谷上杉定正に相模、糟屋の館に呼ばれ、湯殿に招かれて暗殺される。55歳。下手人は曽我兵庫はじめ数人。

暗殺の原因は不明であるが、一説に、道灌が居るかぎり、扇谷上杉氏の繁栄は疑いがなく、山内上杉顕定が扇谷上杉定正に、「道灌謀反」を信じ込ませ討たせた、とも、定正が、道灌の才能と人気に嫉妬した結果、とも言われている。

死の間際、道灌は、「当方滅亡」と叫び、辞世の句を詠んだ。

「昨日までまくめうしわをいれおきしへむなしふくろいまやぶりけむ」

道灌の子、資康はただちに山内顕定に走り、一方定正は、曽我祐重を江戸城に置いたが、38年後の大永4年(1524)1月、道灌の孫、資高は扇谷上杉朝興を裏切り、北条氏に内通。江戸城は北条氏綱に攻略され、城内に土地を与えられた資高は、ようやく道灌以来の復帰を果たした。