■ お江与 ■


(1573〜1626)

お江与は、別に、江、達子、徳子、小督など、多くの名で呼ばれているが、一説に、江戸の徳川秀忠に嫁がされた事で、「江戸に与える=江与」と呼称される事になった、などと言われているので、その時期までの彼女を、小督で呼ぶ。

近江の浅井長政と、織田家と浅井家の同盟のために嫁がされた信長の妹、お市の方の間に誕生。恐らく小谷城で生まれたものと推測できる。上に、兄、万福丸、茶々、初の姉二人がすでにあった。

浅井家と織田家の間が決裂し、浅井氏の小谷城は、天正元年(1573)、織田軍に攻められて落城。父長政は自害。乳飲み子の小督は、母お市の方、姉、茶々、初とともに落城間際、敵でありながら叔父でもある信長の元へ送り届けられる。

以後、叔父(信長の弟)信包の元で養育され、天正10年(1582)、本能寺の変の後、母、お市の方が、信長の家臣、柴田勝家と再婚したのに連れられて、姉の茶々、初とともに、北ノ庄城に移る。

天正11年(1583)、北ノ庄は秀吉に攻められて落城。義父勝家と母お市の方は自害。この時、10歳の小督は、姉の茶々や初とともに、再び城を落とされ、秀吉の庇護を受ける。

小督は最初、秀吉のすすめで、母お市の方の姉の子で、尾張大野5万石の佐治与九郎一成に嫁いだ。が、のちに離縁。秀吉の命令とされる。原因はよくわからないが、一説に、小牧長久手の戦いの和議が成立したあと、一成は、大野川を渡るのに難儀していた家康に船を貸し、これに秀吉が激怒したため、という話がある。

このころ小督は、秀吉の側室になった姉の茶々の病気(あるいは懐妊か)見舞いに訪れており、やがて茶々に鶴松が誕生すると、秀吉は、自分の養子である小吉秀勝に小督を縁付かせた。

ちなみに、秀勝という名は、秀吉の長浜城時代に側室に生ませ、幼少にして死亡した石松丸、信長から養子として引き取り、後継者とした於継丸(天正13年(1585)12月、18歳で没)などが居るが、小督が嫁いだのは、この後、秀吉の養子になった、秀吉の姉の子である。

これは、茶々、小督の姉妹ともども、自分の血縁にするためであったのは明白であり、鶴松の後ろ盾を求めての事に相違ない。

秀勝は、亀山城主であったが、城が小さかったため甲斐府中(甲府市)に移り、秀勝の実母(秀吉の姉)の嘆願により、さらに岐阜城主となった。その後秀勝は、朝鮮の役に出陣し、天正20年(1592)、唐島で死亡。

小督は、秀勝との間に、完子という女子を生んでいる。完子は、姉の茶々(淀殿)が引き取って育て、関白九条兼孝の子、中納言忠栄に嫁ぐ。

秀勝死後、3年経った文禄4年(1595)、小督は秀吉の命令で、徳川家康嫡男、秀忠に嫁す。これまた、鶴松没後、淀殿と呼ばれるようになった茶々が再び生んだ秀頼の将来に備え、実力者徳川との婚姻政策であった事は疑いない。ここから小督をお江与とする。秀忠17歳、お江与23歳。

徳川家に嫁してから、お江与は、千姫、子々(ねね)姫(または珠姫)、勝姫、初姫と女子ばかりを産んだが、慶長9年(1604)7月、結婚10年目にして、ようやく嫡子を生む。これが三代将軍家光である。その後もお江与は、秀忠との間に、次男忠長、五女、和子を生んでおり、この和子は、後水尾天皇中宮になる東福院である。

お江与が嫡子家光を憎み、次男忠長を後継者に望んだ、という話は有名だが、話の背景に、家光の乳母、春日局の存在があるのは否定できない。春日局の働きで、家康が家光を三代将軍に直に裁定した話は有名であり、寛永18年(1641)日光東照宮に奉納された「東照大権現祝詞」に、「崇源院さま(お江与)は、家光を憎ませられ、悪しく思い召すにつき、台徳院さま(秀忠)も共に憎ませられた」という記述が残っている、という。

お江与は、出家した後、崇源院となり、寛永3年(1626)、9月15日江戸城に没。54歳。