■ 織田信長 ■


(1534〜1582)

織田氏は尾張守護斯波氏の守護代であり、斯波氏は、細川氏、畠山氏とともに三管領であった。

永禄のころ越前、尾張を支配していた守護斯波氏は衰退し、代わって守護代の織田氏が台頭する。その織田氏にも二家あり、一つは上4郡の伊勢守系で、丹羽、羽栗、中嶋、春日井を支配。もう一つは下4郡の大和守系で、海東、海西、愛知、知多を支配し、清洲城を中心にしていた。

信長の父信秀は、大和守系、清洲織田氏の三奉行の一人で、本家をしのぐ勢いを持ち、尾張半国を手中に今川氏と拮抗、西三河まで支配する戦国大名と化している。

信長は、天文3年(1534)5月、尾張那古野城(現在の名古屋城、二の丸辺り)で誕生。幼名、吉法師。平手政秀、林新五郎、青山与三右衛門、内藤勝助の4人の家老をつけ、育てられた。

天文15年(1546)、元服。三郎信長。翌16年(1547)、三河大浜で初陣。

天文17年(1548)、交戦中であった美濃の斎藤道三の娘、帰蝶を、和睦の証として正室に迎える。帰蝶には、鷺山殿(道三居城にちなむ)、濃姫(美濃にちなむ)など、後世にも呼び名が出来た。

『信長公記』『名将言行録』などには、幼少時より闊袖を着、半袴をはき、燧袋などを腰に下げ、髪を茶筅に結び、朱鞘の太刀、餅菓子を食べながら歩き、遠近国より(風体異様、奇行につき)大うつけ者と言われたと描かれている。

天文20年、父信秀が死亡し、万松寺で法事が行われた折も、信長は荒縄を巻き脇差をさし、袴もつけず、茶筅曲げの髪のまま、香をつかみ、父の位牌に投げ付けて帰ってしまった、という。

これに、家老、平手政秀の自殺事件が絡む。政秀は、たびたび信長に諌言したが聞き入れられず腹を切り、信長は政秀の死を悼んで行いを改めた、などと言われている。

天文23年(1554)、信長は清洲に居城を移す。あるいは、天文24年(1555)、叔父、信光とはかり、守護代・織田彦五郎を討ち、清洲城を奪取の上、本拠地とした、とも言われる。城は那古野の方が広いが、美濃攻めに備えたのかもしれない。このあと、弟信行を謀殺。岩倉城の守護代、織田信安を追放。

弘治2年(1556)、斎藤道三は子の義龍と長良川に戦って死亡。道三は信長に、美濃を譲る、と遺言状を送っていたため、これ以後、信長は美濃攻略の長い道のりに取り組む。

しかし、当時の信長の状況は多難で、永禄2年(1559)、上洛し、将軍義輝に拝謁しつつ、駿河の今川義元、三河に松平元康を背に迎えている。

永禄3年(1560)、今川義元が2万5千の大軍を率いて西上。尾張に侵入。5月19日、信長は俄かに出陣の命を下し、5騎と雑兵200を連れ、熱田神宮で残りの部下の集合を待ち、戦勝祈願。善照寺で軍勢は3000。ここで今川方の情報をつぶさに調べた上、兵1000を善照寺の砦に伏せ、旗指物を立てて本陣に見せかけ、残り2000の兵を率いて田楽狭間に急行。

信長が沓掛まで来たとき、突然、豪雨が降り始め、信長の一団はこれに乗じて今川本陣を襲い、義元を発見、殺害、義元の首を清洲に持ち帰った。このとき今川本陣では、織田方の丸根、鷲津の砦が陥落したことを祝い、織田部将の首実検をしながら酒宴を開いていたと言われる。

これが世に名高い桶狭間合戦である。以後、信長の名は天下に知れ渡った。しかしこの戦ののち、信長は生涯、装備の近代化、常備軍団制の当用、機動力重視など、軍制改革を行い、自軍の強化に努める傍ら、ことに武田や上杉といった強敵との直接対決は避けている。

永禄4年(1561)、信長は松平元康(家康)と和睦。翌5年(1562)、清洲城で会見。これ以後、家康は信長の最も有力な同盟者であり、信長の危うい上洛過程において、東部方面の防衛を担わせられるのであるが、今川、北条、武田といった強敵と常に直面していた弱小大名の家康にとっても、信長は後援者でありつづける。

また、この頃までの信長の部将は、諌死した平手政秀を筆頭に、林通勝(のち追放)、柴田勝家。幹部に丹羽長秀、佐久間信盛(のち追放)、村井貞勝(のち京都所司代)。若手に池田恒興、佐々成政、森可成、前田利家、金森長近、新規召抱えに滝川一益、木下籐吉郎。

以後、美濃攻めを開始するが、戦況の進展なく、木下籐吉郎(秀吉)が墨俣築城に力を発揮。翌6年(1563)、信長は、居城を清洲から、要害の地、小牧山に移す。

前後して、近江の浅井長政に、妹、お市の方を嫁がせ、永禄8年(1565)には、武田信玄の子勝頼に養女を嫁がせる。さらに、松平元康の嫡子信康に、長女徳姫を縁付けた。

ちなみに、信長には兄弟姉妹あわせて24人おり、弟の長益は、のちの文化人、有楽斎としても名高い。また信長には子供も24人(男12人、女12人)あり、後年の事も入るが、嫡子信忠には、信玄の娘、松姫と婚約(のち解消)させ、四男を家来、羽柴秀吉に養子に出し、秀勝の名乗らせている。娘には、蒲生氏郷、前田利長、中川秀政など、有力傘下大名と婚姻させた。秀吉も信長の娘の一人を後に側室にしている。

永禄10年(1567)、斎藤龍興の稲葉山城を降したので、小牧山から稲葉山に城を移し、岐阜城と改名。(斎藤氏を下したのは永禄7年とも言う)

11年(1568)、越前朝倉氏の元から、信長を頼ってきた将軍義昭を奉じ、上洛。途上の近隣大名にこれを通知し、協力を得て、総勢5万の大軍であった。このとき反抗した、近江、観音寺城の六角承禎のみ討った。

義昭は感謝を表し、信長に与えた感状に、「御父織田弾正忠殿」と記した。京に上った信長は、治安維持に努め、堺、大津、草津に代官を置く許可を得、諸国の関所を廃止して通行税を撤廃。経済の発展を促した。

しかし一方、この上洛成功により、信長は生涯、全国の有力大名や本願寺勢力から挑戦され続ける。また、美濃を併呑したものの、尾張、美濃の兵卒は元々資質的に弱兵であったため、鉄砲の大量装備、兵濃分離による育成が必要であり、京に居ても決して安定した日々ではなかっただろう。

そんな中、翌12年(1569)、三好残党が義昭を襲った。信長が駆け付けると、京近隣の諸武将によって事件は回避されたが、信長は将軍安全のため、二条館(「二条城」とも言うが、家康の築いた物とは違う)を建設し、義昭に進呈し、皇居、内裏の修理も敢行。岐阜に帰ると、岐阜城整備、伊勢征伐。

やや前後するが、この頃の信長の部将には、美濃衆が加わり、斎藤龍興から引き抜いた美濃三人衆の稲葉一鉄、氏家卜全(長島で戦死)、安東守就(のち武田内通、追放)。不破光治、堀秀政(側近)。近江から六角氏旧臣、蒲生賢秀、山崎片家、大和から筒井順慶、松永久秀。足利義昭の連絡をつとめた明智光秀、のちに同じく義昭を見限った細川藤孝。

元亀元年(1570)、将軍の命に応じず、上洛せぬ朝倉義景を討伐のため軍を起こす。これは、浅井氏との約束を破っての軍事行動だったので、逆に浅井長政は信長を攻めた。信長は浅井・朝倉軍の挟撃を危うく逃れた後、浅井・朝倉との間に、姉川の戦いを展開し、勝利。

元亀3年(1572)、武田信玄が上洛軍を起こし、信長の同盟者、徳川家康の領地に迫る。信長は浅井・朝倉と対立中でもあり、家康への救援は佐久間、滝川などの部将と兵を廻したものの、12月、三方ヶ原にて、徳川軍は武田軍に大敗。

天正元年(1573)2月には、信長の勢力を恐れた将軍義昭が、武田、浅井、朝倉と計って包囲網を画策。第一次信長包囲網である。長い間、信玄を敵に回さぬよう、贈り物や婚姻により気を配りつづけた信長だったが、この時期は、生涯最大の危機であったと言えよう。

しかし、信長は逆に義昭を二条館に囲み、朝廷の仲介で一時和解するが、さらに4月12日、上洛途上にあった武田信玄が陣中に病没したため、家康は窮地を脱し、信長は7月、再び兵を起こした義昭を討ち、京から追放した。この直後、朝廷に働きかけ、みずから征夷大将軍になろうとし、果たされなかったとも言われる。

同年8月には、小谷に浅井氏を、これの救援に来た朝倉氏を一乗谷城に囲み、ともに滅ぼす。浅井長政、朝倉義景はそれぞれ自刃。

天正3年(1575)5月、長篠合戦において、徳川軍と連合して武田勝頼の軍を破り、翌4年(1576)1月、安土城築城を着工。総奉行は丹羽長秀、普請は森三郎左衛門、大工頭は岡部又右衛門此俊父子。石奉行に西尾山左衛門。総勢3000人体制で城造りをさせ、2月入城。完成は天正7年(1579)5月。

安土城の重要性は、岐阜より京に近く、京と岐阜を結ぶ軍用道路の整備、琵琶湖を利用した水上交通の開発、北国街道を南下してくる上杉軍にそなえる目的などもあろう。

安土城は海抜200m、『信長公記』(太田牛一)によると、七層、各階座敷、外壁すべて黒漆塗り、内装は壁に狩野永徳による絵(鬼、鯱、龍、餓鬼)。最上層は高欄造り、壁面金箔、回縁に朱塗り、軒に風鐸12個を吊り、屋根瓦は金泥。天守は石垣の高さ25.5m、石垣内部に一階部分が組み込まれる。豪壮華麗な名城であり、外人宣教師もよく招いてヨーロッパの洋式を取り入れ、城下町にまでその構想が及んだという。

安土築城の一方で、天正4年(1576)4月、本願寺光佐が義昭と通じ、石山にて信長に反旗を翻したのを討伐。兵農分離により、戦闘員と非戦闘員を分けた信長にとって、ゲリラ戦による一向宗との長い戦いは試練以外の何物でもなく、のちに精神を膿むきっかけとなるに充分な効果があったとすら言われている。また、宗教人を多く殺したことで、良くも悪くも、信長無神論者説を唱えられるきっかけにもなった。

翌5年(1577)、毛利氏討伐に羽柴秀吉を派遣。同年11月、信長、右大臣。これが今後、終生の地位となる。

また多少前後するが、この頃までの信長の部将は、摂津から三好一族の三好康長、政勝、荒木村重(のち謀反)、中川清秀、高山重友。財政面で政策に加わった今井宗久、津田宗及、千宗易(利休)。伊勢から水軍の九鬼嘉隆。

天正6年(1578)3月、信長を討ち、まさに上洛せんとした上杉謙信が出陣せず病没。上杉・毛利・本願寺連合の第二次信長包囲網は、これにより挫折。天正10年(1582)2月、長篠以後、永らえていた武田勝頼を天目山に追い詰め、3月11日、これを自刃させ、ついに強敵の存在が無くなる。

この日までに信長の版図は膨張しつづけ、近畿、中部、北陸、東海、中国の東半分……と、30ヶ国以上におよび、日本の約半分を支配下に治めた。石高8百万。可能動員兵力は単純計算で20万人と言われる。

また生野などの有力な金山・銀山を支配したことも、膨大な軍団を支える財政基盤ではあったが、こうした限りある資源のみに頼らず、堺など、商工業都市を手中に、楽市楽座などによって貨幣経済を発展させた合理的手法は、特筆すべき業績と言えるだろう。

彼のこうしたリサイクル型とも言うべき手法は、人材面においても余す事なく発揮され、明智、荒木、滝川、羽柴と言った有能な家来たちは、軍事はもちろんの事、謀略や外交に才のある者は、家柄や身分、履歴に構うことなく重用された。幾度も強敵に包囲されつづけた信長にとって、謀略や外交は特に必要とする所だったと思われる。

逆に譜代の重臣でも、佐久間信盛のように追放の憂き目に遭っている事や、荒木村重、松永久秀のように裏切りや謀反を企てる者が多かった事、同盟者として徳川家康を持つ以外、信長にこれといった特定の軍師や参謀が居なかった事なども特異と言えるだろう。

5月、備中高松城を水攻め中の秀吉から出陣を請われ、信長は出陣を決意。先立って長男信忠が21日に京、妙覚寺宿泊。手勢わずか500人余り。信長は、29日安土を出発、同日京に到着。本能寺宿泊。従う者30人余り(人夫小者含めると100人ほどか)。

6月2日未明、織田家武将、明智光秀謀反。光秀麾下1万3千部隊が本能寺を襲う。信長は弓と槍で防戦したが、光秀家来、安田作兵衛の槍に刺され、近従の斬り防ぐ間に奥の間に入り自刃。信長49歳。その晩年には、自らを”神””第六天魔王”と称していたと言う。