■ 丹羽長秀 ■


(1535〜1585)

丹羽氏は桓武天皇の皇子・良岑安世から出るという。29代目の忠長のとき、尾張の丹羽郡に住み丹羽姓を名乗った。忠長の子長政は斯波義敏に仕え、たびたび武功をあらわしたので、丹羽氏の名は近隣に高かったという。

長秀は天文4年(1535)、長政の次男として尾張に生まれた。幼名万千代。
天文19年(1550)、織田信長の小姓になり、永禄11年(1568)、信長とともに上洛し、六角氏の近江箕作城を落とし、京に入った。のちに信長の重臣となり、惟任の姓を与えられた。
姉川の戦いに参加、元亀2年(1571)、近江佐和山城主となり、5万石が与えられた。
天正3年(1575)の長篠の戦いにおいても功を上げ、翌年、若狭小浜城主となり、10万石を領する。

本能寺の変ののち、羽柴秀吉と山崎で光秀を滅ぼした。信長の跡継ぎをきめる清洲会議でも秀吉側に立ち、賤ヶ岳の合戦でも秀吉に属して戦った。のちに越前、若狭および加賀半国を与えられ、北之庄城に移り住み、越前守となる。100万石以上という。
天正12年(1584)、小牧・長久手の役でも秀吉に属したが、天正13年4月16日没。51歳。