■ 直江兼続 ■


(1560〜1619)

樋口惣右衛門兼豊の子として永禄3年に誕生。

天正10年(1582)、直江景綱の娘婿として養子入りして直江姓を継ぐが、景綱の娘には先に夫がおり、これの死去にともなって、直江家では二度目の婿養子を必要とした経緯がある。

執政官として上杉景勝に用いられ、上杉領内に影響力をもち、また学問好きで米沢に禅林文庫を建て、朝鮮の役でも文献収拾に努めたと言われる。

しかし、兼続の武功戦歴はほとんど無く、慶長5年(1600)、最上氏との間に戦われた長谷堂城攻めが知られるのみで、石田三成と呼応して家康を南北から挟撃する策を建てた逸話や、家康の非道に対し挑戦状(直江状)を送り付けた逸話があるが、真相は不明。

関ヶ原以後、大幅に領土を減らされた上杉氏の米沢において、間もなく死去。直前に徳川家の家臣、本多正信の子を養子にしている。