■ 南部信直 ■


(1546〜1599)

南部氏は清和源氏、新羅三郎義光を先祖とする。義光から4代目の光行が甲斐国南部庄の地頭となり南部氏を称した。
この光行のころ、既に奥州征伐の功績により奥州五群を領したとも言われるが詳細は不明で、それから5代目の祐政が興国年間(1340〜45)、盛岡に居城したと言われ、この頃あたりからは奥州五群を領していたのは確実のようだ。

南部氏は豪族として近隣を従えたが、信直は祐政とは従兄弟にあたる信長から7代の後裔。

天文15年(1546)、南部一方井に生まれた。南部氏の一族で田子城主・石川高信の庶子だったが、南部晴政の跡継ぎとなった。しかし、晴政に実子晴継が生まれたため田子城に戻った。
天正10年(1582)、晴継が若死にしたので、再び南部氏の当主となり、三戸城に移ったが、信直の本家相続には一族や重臣の間に多くの異議があり、さらに九戸政実の影も影響し、小競り合いもあったという。

斯波氏を威圧した後、天正18年(1590)の小田原征伐のとき参陣して秀吉に会い、津軽氏の謀叛を訴えたがとりあげられなかった。

翌年、九戸政実の叛乱に会い、これを討つと九戸城を修築して福岡城と名を改めここに移った。ついで盛岡に築城の工を起こしたが、その完成を見ずに、福岡城で没した。慶長4年(1599)10月5日。54歳。