■ 中川清秀 ■


(1542〜1583)

中川氏は清和源氏の末で、源頼光の曾孫、多田明国から出て、その後裔の清村のときはじめて中川姓を名乗った。

清秀は天文11年(1542)、摂津に生まれた。父は重清。幼名虎之助で通称は瀬兵衛。

のちに摂津茨木に築城し居城として池田勝政に属す。城主和田惟政を破る。

天正6年(1578)、織田信長に仕え、荒木村重のもとで働き4万石を与えられ、村重没落後は豊臣秀吉の配下として、天正10年(1582)、明智光秀と山崎で合戦し功を立てた。翌11年(1583)、秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いで秀吉に属し清秀は大岩山に陣をはっていたが、勝家の武将佐久間政偵の軍勢に襲われた。清秀は政偵の兵と苦戦ののち、ついに戦死した。

ときに天正11年(1583)4月20日。42歳。

清秀の子秀政ははじめ信長に仕え、三木城に在ったが、のち秀吉に仕え、文禄の役のとき水原で戦死した。中川氏は弟の秀成が継ぎ豊後竹田7万石を領した。