■ 鍋島直茂 ■


(1538〜1618)

鍋島氏は藤原氏の出で、はじめ龍造寺氏を称した。鎮守府将軍・藤原秀郷の七代の末、秀清にはじまり、その孫秀家が龍造寺を称した。直茂は龍造寺隆信の重臣として、鍋島を名乗った。

直茂は天文7年(1538)、肥前本庄の館に生まれた。幼くして小城城主・千葉胤連の養子となったが、少弐氏と龍造寺氏の動乱を契機に鍋島家に帰り、家督を継いだ龍造寺隆信に仕えて歴戦。
龍造寺隆信とは母系の従兄弟であり、また直茂の実父、清房が隆信の生母を妻に迎えたため、義兄弟でもあった。

大友氏らとの戦い、とくに佐賀城攻略に大功をたてた後、筑後・柳河城主となる。

隆信が戦死後、子政家が龍造寺家を継いだが政家は武将としての才がなく、病身でもあったので、実権的にはその跡を継ぎ、直茂自ら佐賀城にはいって、龍造寺の領土を治めた。

秀吉の九州征伐のとき本領を安堵され領有。朝鮮の役では渡海転戦、さらに再征にも出陣した。
秀吉の死後は徳川家康に通じ、肥前に35万7千石を安堵された。
関が原の戦いでは、肥前にいて東軍に属し、近くの西軍の諸城を攻めた。

元和4年(1618)6月3日、佐賀城に没した。年81歳。
佐賀藩の初代は次代より。