■ 毛利元就 ■



(1497〜1571)

毛利氏の祖は、鎌倉幕府創業の功臣・大江広元で、その四男・季光から3代将軍・源実朝に仕え、相模国毛利庄の地頭となって毛利氏となり、その孫・時親が足利尊氏から地頭に任じられ、安芸国高田郡吉田荘に移住。以降、建武2年(1335)に同荘の郡山城を築き、居城とした。
応仁の乱から大内氏に属し、元就の父・弘元、兄・興元の代に勢力を拡張する。

元就は明応6年(1497)、弘元の二男として生まれた。母は福原広俊の娘。幼名は松寿丸。のち少輔次郎。

元就に関する逸話は非常に多いが、「三矢の訓」など後世付会や伝承による物が多いとも言われ、幕末まで生き抜いた毛利藩の祖にあたる点、逆に倒幕の旗印だった点など、毛利氏にまつわる様々な点から検証する必要があるだろう。

そうした逸話の一つに、元就が12歳の時と言われる物がある。
厳島神社に参拝した元就が、あとで御供の家来に何を祈ったか尋ねると、答えた一人にお守役がいて、「殿が中国(地方)全土の太守になられるように」と答えた。元就は「日本全土と祈るべきだ」というので、お守役は「まず中国を得てから、日本全土を望むべきでは」と聞くと、「日本全土をとろうと思って、ようやく中国を手に入れることができるもので、中国を望んでいたのでは中国もおぼつかない」といったので、家来一同が感心したという。

永正10年(1513)、明から来た使者に、朱良範という人相をよく見るものが同道し、元就を「漢の高祖や唐の太宗の相」と言い、やがて武威を四方にふるうと予言し、元就もこの言を大いに気に入っていたという。
元就の相とは、眼光するどく、顔長く、鼻高く、鬚髯も立派で、士卒に号令する声は大きく諸隊を圧したという。

兄の興元が在世中は、元就は猿懸城(吉田町)の城主となっていた(同郡の多冶比氏に養子に行ったとも言う)が、興元が若くして病死したため、その嫡子・幸松丸の後見人となる頃から、史実としての元就が見えて来る。

初陣は近隣の武田氏を相手とした戦いで、大勝利を収めたようだが、元就の若い頃には、幸松丸の母の実家筋・高橋氏を含め、この武田氏など周囲の豪族の勢力がひしめいていた。

やがて甥の幸松丸も9歳で夭折し、大永3年(1523)、元就が家督を相続する。元就27歳。
ところがこの年、弟の元綱が尼子氏と結び、毛利家の家督を奪おうとしたので、元就は元綱を討ち、それまで交友関係にあった尼子氏との友好を断ち、大内氏と結んだ。

弟・元綱に加担した勢力が尼子の後押しを受けるなどもあったようで、やがては中国地方を大いに支配した元就も、初めの頃は在地における家来や小豪族との軋轢に苦労が多く、尼子氏と手を切り、大内氏の幕下に入ったこともその現れであろう。

当時の中国地方は、山口に大内・出雲に尼子氏の二大勢力があり、安芸、備後の辺りで衝突していた。
二大名の力の均衡は、周囲をとりまく豪族たちの勢力伸展に重大な影響を与え、小豪族はどちらかに属して生き残るしかなかった。

毛利氏も例外でなく、元就は地元であり、大内と尼子の間を振り子のように揺れ動く、安芸、備後に安定した力をもたねばならなかった。

元就の主君となった大内義興(義隆の父)は、元就を評して、楠木正成の再来、とその軍略の秀れたことを誉めたともいい、例えば、こんな逸話もある。

元就が青屋友梅の城を攻めた時、城は固く城兵もよく防いで、元就側に死傷が多かったので、元就は城を囲んで兵糧攻めの策に出た。
城内では馬を白米で洗い、水で洗っているようにみせかけた。元就の家臣・井上光親が城中に送った使者が、「友梅は大きな盥に水を入れて馬6〜7頭を洗い、米俵を雑兵が倉からたくさんかつぎ出している」ように見せたと言うので、「水も食糧も充分」と落胆する家来が多かったが、元就が「ひと月もしないうちに落城する」と予言し、兵糧攻めを続行した所、城は20日あまりで降伏し、城内には水も食糧は尽き果てていたという。

こうした用兵に優れた面もあっただろうが、実際の元就は、あらゆる術策を用いた。
どの勢力の誰が二大勢力のどっちにつこうと、どう内輪でもめようと、手を廻して誼を通じ、じわじわと連合勢力を広げたのだろう。

尼子、大内は力がほぼ拮抗していたようで、進出し攻撃をかけた方が敗れているが、大内側の苦戦も目立つ。

天文9年(1540)9月、5万の大軍で安芸に侵入した尼子晴久を元就は迎え討ったが、兵力の差がありすぎて、たびたび敗れ、11月には居城郡山城を包囲された。
元就が属す大内氏は義隆の代になっており、義隆は陶晴賢に一万の兵を与え、郡山城を救援させたが、二ヶ月あまりもかかって、やっと尼子軍を退けた。冬の寒さから、糧米輸送の困難で尼子氏が撤退したとも言う。

天文11年(1542)、12年にかけて、大内義隆は報復として出雲を討った。元就は3万5千の大内軍の先鋒をつとめたが、尼子の勇士たちの善戦によって、かえって侵入した大内軍が破られ退いた。

この失敗は影響が大きく、大内氏に属していた安芸、備後の豪族には、尼子の傘下に走るものが多く、元就は戦い続きの日々を送る苦境に立ち、戦闘のない日も、細作を使って敵対する近隣豪族への工作をおこなった。

元就は常に数十人の細作を使い、謀略戦術を練ったと伝えられる。細作は武田信玄が有効に使い、上杉謙信の領国内にも数多く送りこみ、かく乱を試みて、真っ向からの決戦をいさぎよしとする謙信をたびたび怒らせたと言うが、元就の細作を使う能力は天才の粋に達しており、中国を制覇したのも、この方法ゆえという。

当時の他の武将たちと同じように、元就も婚姻政策を利用した。
毛利氏は小豪族の連合の上に盟主として存在するにすぎず、在地領主との主従関係が不安定で、婚姻による懐柔策が取られたと見られるが、その結果は強引な他家乗っ取りとなっている。

元就には九男二女があった。長女を近くの甲立城(五竜城。甲田町)城主・穴戸元源に嫁がせた。
また彼の婚姻外交で有名なのが養子政策である。
すなわち、二男・元春の妻には備中高松城の熊谷信直の娘を迎えて、元春を吉川家に養子に入れ、また三男・隆景には沼田小早川の娘をめとって、隆景を小早川氏(沼田・竹原の両家)へ養子に出し、沼田・竹原両小早川家の統一を図った上で、毛利家に組み込んだ。

吉川氏については、元就の正室が吉川氏の出身で、元春はこの正室の子ではあるが、当主は殺されており、言ってしまえば体よく乗っ取ったわけである。
小早川氏においても家中の分裂を仕掛けたか、少なくてもそれに乗じている。

吉川、小早川両氏とも毛利氏と同格の在地領主であるため、生き延びて行く上で必須の連帯であったわけだが、この三勢力の結合が、中国地方一帯を支配する上で重要な役割を果たした事を思えば、尼子・大内を滅ぼす事まで計算されていた、とも見れなくはない。
元就自身、家中において専横や反抗的な家臣(井上氏など)に厳しい征伐を加えられるようになったのも、この後である。

このようにして元就は着々と勢力をのばし、安芸、備中などの豪族を従えたが、天文20年(1551)、主家の大内氏に大事件が起こった。

大内義隆は風流、文弱に流れ、政治・軍事がおそろかで、家臣でも陶隆房(のち晴賢)と相良武任が対立し、ついに隆房が挙兵、主君・義隆を自殺に追い込んだのだ。
さらに隆房は、豊後の大友宗麟の弟・晴秀を迎え「義長」と名乗らせて大内家を継がせ、隆房もこれを機に「晴賢」と改めた。

元就は一応陶氏に従い、引き続いて大内氏に属したが、大内氏と縁続きの石州三本松城(今の津和野城)城主・吉見正頼は、晴賢に討たれた大内義隆の姉の夫で、晴賢と断交、反晴賢の挙兵におよび、対決姿勢を明らかにする。

が、小国ゆえに用心深い元就は、何か奇策を用いない限り、兵力差が5〜10倍もある陶晴賢の軍とまともに戦っては勝ち目のないことを読み、力関係を冷静にはかって、吉見氏の同盟申し入れにも即答せず、さまざまな謀略工作を行なっている。

三本松城の吉見正頼は、その後も晴賢の非を攻め、敵対していたが、好機をねらっていた元就は、天文23年(1554)、陶晴賢が三本松城の正頼を攻めた機会をのがさず、事件から3年も経って、はじめて正面から陶晴賢の非道をあげ、これを討つと称して兵をあげた。

元就は直ちに金山城(銀山城)、平源城、草津城、桜尾城(廿日市町)など安芸の国の陶氏に属する城を攻め落とした。晴賢は元就の挙兵に大いに驚き、急遽、吉見氏と和を結び、討伐の兵を向けたがかえって大敗したので、兵を山口に退けた。郡山城に帰った元就は、その後、彼の得意とする細作戦術をおこなう。

こんな逸話がある。同年5月、陶晴賢の軍と対陣していると、敵方に放った細作が帰ってきて、今夜陶軍は兵を川岸にかくし、明朝夜明けに不意をつく作戦と知らせた。元就は家来に兵を与え、川岸の敵兵を逆に討ちとるよう命じたが、自分で兵達の後をつけ、川岸手前の高い丘から見ていて、突然引き上げの伝令を出した。

家来たちが理由を聞くと、「敵陣や伏兵のありそうな所は闇夜でわからないが、数多く飛んでいる蛍が川下では乱れ逃げたので、敵兵がわが軍の不意をつこうと、ひそかに川を渡っているのに気付いた」と言ったという。
事実としたら、恐るべき細かさ、と言っていい。

また陶晴賢の旗下・江良(丹後守)房栄は、元就に備えて岩国に陣していた。彼を味方に引き入れようとしたが、房栄は耳をかさないため、房栄がすでに元就と通じていると細作に噂を流させ、にせの手紙を作り、房栄謀叛のにせ証拠をつくり、晴賢の手に入るようにして、晴賢に房栄を討たせた。

こうした手の込んだ細かさ、謀略の凄さから、結束が固い名門・尼子氏に対しても内部分裂を誘い、国久を当主・晴久が殺すようにしむけたとも言われる程で、元就の真骨頂はこの策謀にあり、その傾向は晩年になって、ますます老獪の度を加えた。

強大な陶氏と戦うに有利なのは海戦であり、それも大軍を狭い場所に引きいれ、奇襲するしかないと思い極め、事前工作に万全を期すと、奇襲場所を厳島と決め、厳島に砦を構え晴賢をおびき寄せようと、その北岸宮尾の地に城を築き、陶氏を厳島に誘導することに成功している。

このとき元就が、細作を使って流した風説はこうであったという。
「元就は重臣たちの反対をおし切って厳島に城を築いたが、島は海から攻撃されれば弱い上、城の備えとしての軍船が百艘は必要なのに、その半分も無い。いま宮尾城を攻めたら毛利氏は滅亡する」

家臣の中には、厳島の城攻めには反対のものもあったが、晴賢はこの謀略に乗って、弘治元年(1555)9月、厳島に2万の大軍を一挙に上陸させた。

弘治元年(1555)9月30日夜、厳島は風雨に包まれ、毛利元就4千の兵は、この嵐の中を二手に分かれて、ひそかに厳島に上陸。10月1日、陶晴賢2万の軍が眠る未明、一斉に晴賢の本営を襲った。同時に、伊予水軍の援助も受け、元就と村上水軍の軍船も晴賢の水軍を攻めた。大軍で身動きのとれない陶軍は大混乱に陥り、晴賢も逃げ遅れて大江浦で自刃した。

世にいう厳島の合戦は桶狭間の合戦に比肩する奇襲作戦で、毛利氏の大勝利に終わり、元就の武名を一躍天下に拡め、毛利氏が大大名となるきっかけとなった。

この戦勝に気をゆるめず、元就は陶氏、大内氏の諸城を落とし、その本拠山口に迫ったので、大内義長は山口からのがれ、北九州の勝山城(のちの小倉城)に入ったが、毛利氏の追撃を受け、弘治3年(1557)、義長は自刃し、大内氏もここに滅んだ。

その後も大内氏の残党や、反抗する豪族との戦いはあったが、すでに本拠の安芸はもとより、備後や、大内氏の旧領であった周防・長門を支配。この4ヶ国をもって中国地方における一大勢力となった。

元就には、"信玄×謙信"といった敵対図がなく、強いていえば、大内・尼子・大友の三氏だろうが、大内氏は滅び、尼子氏は徐々に人材に欠け、大友氏とは海を隔てて緊迫に至りにくい。
むしろ敵を作らずに、わずか一代で中国地方のほぼ全域を支配したのが元就という人であろう。

元就に関する逸話の中で、もっとも有名な「三矢訓」(三本の矢の教え)は、こうである。

死期が近いのをさとった元就が、長子・隆元、ニ子・吉川元春、三子・小早川隆景を枕元に呼び、それぞれ一本の矢を折らせると、どれも容易に折れた。矢を三本合わせて折らせたところ、容易に折れなかった。
元就は「(矢と同じく)一人では敵に弱いが、三人の力を合わせれば、どのような強敵にも当たることができる。父の死後は3人力を合わせ、毛利家の繁栄をはかれ」と教えた。

実際には、元就が死ぬ9年前に長子の隆元は他界しており、元春も出雲に出陣中。郡山城の隆景もすでに39歳で、こんな戒めが必要な年齢でない事から、後世の付会と言われているが、元就が三子に訓戒を与え、子供達が承知した旨を連書しているのは、ちょうどこの時期、すなわち弘治3年(1557)11月の事である。

「元春は吉川を、隆景は小早川と、他家を継がせたが、毛利本家をおろそかに思ってはならない、兄弟3人の不和は三人の滅亡である、毛利家のことを本当に心配するものは3人兄弟の他にはない」といった内容で、この訓戒が語り継がれて、後世脚色され「三矢訓」となったのだろう。

毛利氏の家臣団は、庶家(分家)・譜代(近臣)・国衆(在地領主)・外様に分類されるが、最高の力は紛れもなく、元就の三人の子供達で、嫡子・隆元は元就が隠居して家督を譲ったものの、41歳の働き盛りで父より先に逝っているが、元春・隆景が甥の輝元をしっかり補佐して、毛利両川体制といわれた。

二男の元春は猛将型で、主に山陰方面の作戦を担当した。
三男の隆景は智将型といわれ、山陽・瀬戸内をまかされ、村上水軍を掌握した。この村上水軍が、石山本願寺救援に活躍したのはよく知られる。

毛利家を取り巻く危機は、先にあった元就の領国経営、家臣統制に対する不安で、毛利本家と両川の団結があってこそ、中国支配を成し得たことは間違いない。

この時期に、12名の国人からなる連判状が交わされ、毛利氏も相変わらず同等の格に納まったままだが、その中で吉川・小早川が大きな勢力であり、毛利・吉川・小早川の三家が、実際には毛利の物というバランスが、どれほど大きな影響をもたらしたかを思えば、「三矢訓」の逸話も、地域にとっては単なる作り話では済まない意味を持つ。

中国の西部すべてを領有した元就に、残すは山陰一帯に勢力をふるう尼子氏を討つことであった。
尼子氏はもともと、出雲の国に守護京極氏(佐々木氏)の守護代をしてきた家柄だが、経久の代に近隣の豪族を従えて盛名をふるい、山陰・山陽11ヶ国の大名ともなったが、孫の晴久の代からやや勢力ふるわず、大内氏との戦いの間も、元就が後方を守るため吉川元春を石見国に出兵させると、毛利氏の威名に小豪族は続々と降った。

永禄3年(1560)12月、その晴久も死んだ。
そして晴久のあとを継いだ義久にいたって、ついに毛利氏の大攻撃を受けることになる。
元就は北九州に勢力をもつ大友氏と結び、西方の心配を払拭。本格的に尼子氏の攻略にかかった。

尼子氏の諸城を下し、永禄9年(1566)にはついに尼子氏の本城である出雲国・月山富田城を囲んだ。
後に尼子十勇士といわれた山中幸盛(鹿之介)などの勇戦もあったが、月山城は孤立し、糧食を断たれ、援軍の来る望みもなく、永禄9年11月、ついに落城。義久は弟倫久・秀久とともに毛利軍に降った。

ここで毛利氏は、安芸・備後・周防・長門に加え、尼子氏の旧領、出雲、因幡、伯耆、の三国を合わせ、さらに備中の征服にのり出した。
さらに石見の全域と隠岐・備前・美作・但馬の一部をも勢力圏として九州に進出し、大友宗麟とも交戦した結果、中国・瀬戸内に君臨し、四国・九州にも睨みをきかす大大名へと成長した。

こののち四国、北九州にも出兵し、その勢力を拡げるほどであったが、滅んだ尼子氏の一族・尼子勝久が、織田信長の援けを得、山中幸盛(鹿之介)らとともに出雲に兵を起こした。
この戦乱のさ中に元就は郡山城で亡くなった。元亀2年(1571)6月14日、75歳。

「日本全土を目指して、中国(地方)がやっと取れる」と逸話される元就だったが、元春・隆景と孫の輝元(隆元の嫡子)に「天下を争うより、国を侵す者に力を合わせてあたれ」と遺言したとも言う。
巨大な大内や尼子が勢力を失っていく世に生きた元就は、毛利と両川の結合も範囲を広げれば力を失う事を知っていたのだろう。

元就が、中原から離れた中国地方ではなく、近畿か東海に生まれていれば、歴史も変わっていたかもしれないが、この遺言に忠実であったため、本能寺の変の後もあえて動かず、その結果、毛利家の安泰をもたらした。

元就の死後、毛利氏はさらに勢力圏を拡げたが、のち秀吉に従い、元就の孫輝元のとき、先祖代々の城、郡山が手狭なため、広島に新城を築き、ここに移った。
しかし、関ヶ原の合戦ののち、120万石の大封を除かれ、30万石前後で山口に移り、のち萩に城を築いた。

明治維新に萩の地に300年の間培われた反骨精神は、島津氏のそれとともに倒幕の原動力となり、元就以来の藩風と気概が再び燃え上がった。