■ 毛利輝元 ■



(1553〜1625)

天文22年(1553)生まれ。父の隆元は輝元11歳のとき没し、永禄8年(1565)ごろから祖父の元就について合戦に加わり、元亀2年(1571)に元就が没すると毛利家を継いだ。

天正4年(1576)、本願寺光佐を援け織田信長とも争い、信長の部将であった秀吉が上月城を落とし、尼子勝久に守らせたが、これを攻め取り、天正10年(1582)備中高松城で秀吉と対戦したが、和睦が成り、こののち輝元は秀吉に属した。天正の末、居城を郡山より広島に移した。朝鮮の両役に参戦。

関ヶ原の戦いでは石田三成に加担し、西軍の総大将となって大坂城に入ったが、後詰めとして出陣しなかった。

かつて元就の代には中国の雄であった毛利氏も、関ヶ原の戦いの結果を受けて、120万石あった領国をけずられ、わずかに周防・長門30万石前後のみとなり、萩に新しく城を築いて移った。
寛永2年(1625)、萩城で死去。73歳。

徳川氏に対する反骨はやがて幕末になってようやく現われ、萩の城下に倒幕の士が郡出し、明治維新の原動力となった。