(1565〜1582) 森氏は源義家の六男・源義朝に仕えた、森冠者・陸奥六郎義隆を祖とするというが、森家は源義家の子・義隆から出た系譜にも同姓が見られ、蘭丸に繋がる系図はここに繋がって書かれ、提出されている。 16代目が森可成で、織田信長に仕え金山城主であった。 蘭丸は「乱丸」とも書かれ、正式に伝えられた名は「長定」。 永禄8年(1565)、森可成の三男として美濃金山に生まれる。 が、元亀元年(1570)には、父・可成は、朝倉、浅井の軍と宇佐山に戦い戦死した。 天正7年(1579)4月、15歳で織田信長に仕えた。才智に富み、容貌美麗で、信長に重用され、その一字をもらい長定と名乗った。 信長と蘭丸の逸話は多く、奏者や奉行の役職もつとめ、天正10年(1582)3月、甲斐平定後、美濃岩村城5万石を与えられた。 同年6月2日、本能寺の変で信長を守り、明智光秀の臣・安田作兵衛と渡り合い、討ち取られた。18歳。 多くの兵を引き連れての合戦でない本能寺の変において、討死した近習として世に知られているようだ。 又この時、蘭丸の弟坊丸(四男)17歳、力丸(五男)16歳も一緒に討ち死にした。 森氏はのち徳川氏に仕え、大名として残った。 |
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